大平 シロー。 大平サブロー

大平サブロー

大平 シロー

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 本名、 伊東 博。 、卒業。 死去時の所属は。 2人姉弟の長男。 旧芸名: 太平 シロー(読み同じ)。 また、より一時期 太平 詞郎と表記していた。 来歴 [ ] 漫才師デビューまで [ ] 時代はアカデミー児童劇団に所属していた経験があり、在阪局製作のドラマや、、、製作の映画にも多数出演していた。 とは中学の同級生。 その後ファッションモデルへの転身を経ての養成所に入り、であるトリオ・に師事し、に養成所時代に知り合ったとともに「」のコンビ名で所属の漫才コンビとしてデビュー。 シローは駆け出しからずっと相方が決まらず、複数の相方を変遷した経緯がある。 ただしこのサブローとのコンビは比較的安定していた。 吉本への移籍 [ ] その後、のテレビ番組『』出たさに吉本興業への移籍をひそかに望むが、当時は吉本と松竹との協定で相互の芸人の引き抜きは禁じられていた。 そのために悩んでいた所、師匠のレツゴー三匹から弟子の立場を破門される。 実は2人の心移りを知っていたレツゴー三匹が吉本へ行くことが可能になるように芝居を打ってのことであった(従って師匠・弟子としての関係は続いていた)。 吉本からの独立 [ ] 俄かに湧いたという時代の波に乗り、人気漫才コンビとしての地位を確立した。 には、吉本から独立して東京の芸能プロダクションに所属しテレビ番組に出演。 に漫才コンビは解散。 芸能社太平会館を立ち上げ、「 太平 詞郎」に改名。 同年にの姉妹団体・公認でから立候補するも落選。 吉本復帰後 [ ] に吉本へ復帰。 当初は放送作家としての活動が中心だったが、大平マサヒコ(現:)と漫才コンビを結成し舞台に出演。 しかし、ほどなく解消。 以降はピンで活動する。 喧嘩別れする形でのコンビ解消、サブロー単独での吉本復帰(後にシローも吉本復帰)などの要因で、かつての相方サブローとは、絶縁状態とされていたが晩年は関係修復されており、サブローがトーク番組でも「あの時シローちゃんが…」と、シローの話をすることがあった。 吉本内部で、のようにコンビ復活させる案も出たが、実現には至らなかった。 タレント業のほか、(現:)、()、、ら弟子も抱え、更に居酒屋やバー等飲食店の経営も行うマルチな活躍をした。 放送作家として本名の「伊東博」名義で『』の構成や『』でブレーンとして参加していた。 東京本社所属でありながら、東京での仕事は非常に少なかったが、2006年に映画『』に出演し、久々にスクリーンに姿を見せた。 死去 [ ] 、大阪市内の事務所で倒れ、市内の病院に緊急搬送。 難治性と診断され、治療を受けたが、に家族や弟子に見守られ死去。 55歳没。 シローの死から一夜明けた、相方のサブローが報道陣との質問で、4年前()に「サブロー・シロー」を再結成する計画を話し合っていたことを明かした。 ・告別式はに親族のみの家庭葬としての形で大阪府内で営まれた。 前日の通夜にはサブローも参列し、告別式には吉本興業会長のや、中学の同級生だったオール阪神が参列、他に()、ら芸人仲間も弔問に訪れた。 また、からの供花も供えられていた。 師匠であるレツゴーじゅんが、シローの遺影の前で「あんな漫才は出来ない。 君は天才や。 君と知り合えてありがとう」と泣きながら弔辞を読み上げた。 出棺の際、シローが眠るを抱えたオール阪神とおさむが「シロー、ありがとう! 」と絶叫しながら漫才ブームを支えた同僚に最後の別れを告げた。 は「 芸華博道信士(げいかはくどうしんじ)」。 ものまねのレパートリー [ ]• :オール阪神• :今くるよ• ::師匠• :生恵幸子• 鳳啓助・京唄子:• :2人共• 『』の• 『』シリーズの(ドクロベエ他)• 『』シリーズの(ボヤッキー他)• (笑芸作家)• (作家)• 有川寛(元プロデューサー、前館長)• 川崎宗男(元、などの担当マネジャー) 『』の『 ひょうきんベストテン』のコーナーでは、、などの当たり役も多かった。 シローが行っていたものまねの一部は、や()も行っている。 レギュラー番組 [ ] ラジオ [ ]• (、2007年3月終了) インターネット [ ]• (、) 出演していた番組 [ ] サブロー・シローとしての出演はを参照。 映画 [ ]• (1987年、東宝:天王寺屋善平)• (2006年、パンドラ:若林陽一)• テレビドラマ [ ]• いたずらエンジェル おじゃ魔天使(「」1985年)• (「」1990年8月4日放送、シロー名義)• 第16シリーズ「安浦刑事が殴った女」(2003年、・東映) - 野川誠• (「」2003年11月10日放送) - 飲み屋の客 情報番組 [ ]• (1989年、フジテレビ) バラエティ番組 [ ]• (フジテレビ)• (フジテレビ) CM [ ]•

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大平シローさん急死 元相方サブロー、阪神、ぼんちら悼む

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「太平サブロー・シロー」として漫才ブームにのった後、いったん吉本興業を離れ、後に復帰した経緯がある大平サブロー(63)は23日、大阪市内で、MBSラジオ「こんちわコンちゃんお昼ですょ!」に生出演し、芸人からの批判意見が噴出している現状に「気に入らんかったら、辞めろ」と発言した。 大崎洋会長の若手時代からを知り、岡本昭彦社長とも旧知のサブローは、前日22日の会見を「世間の人には申し訳ないけど、頑張って~や、ここ、大事なとこやで、と思いながら見てた」。 物足りない会見に「しゃべり、もうちょっと勉強して」と苦言をていした後に、所属芸人からの批判が止まらない現状を嘆いた。 「時代って怖いよな。 若い人、こいつらふぜいがそれこそなんや。 これこそ、気に入らんかったら辞めろ。 ただし、加藤君だけは腹くくって言ってるけどな」 退社をかけて、経営陣の刷新を求めた加藤浩次の決意には評価した。 ただ、加藤の発言後、後輩芸人がSNSのツールを使って、一方的に批判の声を浴びせている状況に「弱ったのを見てから物を言う。 時代が変わった。 おれ、怖かった」と感想を口にした。 サブロー・シローは、先にサブローが吉本へ復帰し、タレントとして再出発。 後に、遅れて太平シローさん(享年55)が復帰した経緯がある。 復帰後のシローさんは、弟子とコンビを組むも続かず、再起へ苦しんでいた。 サブローは当時、大崎会長が、生前のシローさんに「困ったことあったら、何でも言うてこい」と言っていたことを明かし、芸人思いの一面も披露した。 同番組に出演していたシルクも、相方のミヤコさんを亡くしており、その際に、大崎会長が声をかけてくれたと話していた。

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1980年代のMANZAIブームで一世を風靡した漫才コンビ「太平サブロー・シロー」の大平シローさんが、難治性心室細動で急死した。 西川きよしやデーモン小暮らの独創的なものまねを得意にしていた。 あの島田紳助が漫才を諦めて紳竜コンビを解散したのは、サブロー・シローとダウンタウンにはかなわないからだと言われている。 「確かにシローさんは天才でした」と語るのは、お笑いに詳しい関西在住のコラムニスト・吉村智樹氏。 「台本もなくネタ合わせもしない。 出番当日、相方のサブローさんに『オレが酔っ払いになるから、絡まれる役をやって』と言うだけ。 なのに本番ではテンポのいいやり取りで大爆笑。 でもコレ、相手がサブローさんだからできたこと。 92年のコンビ解散後、若手とコンビを組んだり、『大平シローと懲りない面々』というものまねコント集団をうめだ花月シアターでやっていたんですが、シローの厳しい指導のプレッシャーにノイローゼに追い込まれ、入院した芸人もいました」 天才ゆえにプライドも高かった。 88年、吉本興業から独立して東京に進出したのも、明石家さんまや島田紳助の成功に刺激されたからだという。 「シローは子役からドラマや映画に多数出演し、もともとは役者志望。 芸人というより芸能人という意識が強い。 だから気取った東京弁をしゃべっていた。 芸人たちからは失笑を買っていたけど」(ベテラン芸能記者) プライドの高い天才は奇行も多かった。 東京進出当初、「おれのマンションにはカッパがいる」と騒いだり(壁にカッパのようなシミが浮き出た)、シンガポール・ロケのため、羽田から成田までリムジンバスで移動したら、「ヘリを出せ! 「こういった奇行を東京行きに誘われた元吉本のマネジャーが暴露した。 92年には参院選にミニ政党から突発的に出馬し、落選している。 結局、東京進出はうまくいかず、まずサブローが吉本興業に謝って復帰。 シローも99年に復帰した。 しかし、仕事はジリ貧となり、ここ数年はタレント活動はなく、焼酎バーやたこ焼き店の経営で収入を得ていた。 絶縁状態と伝えられたサブローは、訃報を受けた取材に対し、4年前、大阪・心斎橋の小料理店で会い、その後、道頓堀まで歩いた時、シローから「もういっぺんサブロー・シローっていうの、どうなんや?」と振られたことを語った。 「シロー君、申し訳ないけど、僕の中ではそれはないねん」と断ったら、寂しそうな顔をしたという。 享年55。

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