ナポレオン。 ナポレオンの名言・言葉(英語&日本語)

ナポレオンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ナポレオン

Napoleon Bonaparte 1769-1821 2006年センターテスト追試 右の図はダヴィドの描いた有名なナポレオン像である。 この図を題材にして、2006年のセンターテストでは次のような問題文があった。 「ナポレオン=ボナパルトは、皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作さていた。 次の図は、彼が、1800年にサン=ベルナール峠を越えて、北イタリアのマレンゴでオーストリア軍に大勝したときの、アルプス越えの様子を描いたものである。 足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将、中世フランス王国のに続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。 このようなナポレオンの肖像画は、数多く作成され、フランス国内やナポレオン支配下の国々の宮殿を飾るのに用いられた。 」 第一統領 は立法権も握り、フランス革命の成果を固定するための処置を進めた。 中央銀行としてのの設立、通貨の発行、教育の統一など経済と社会の安定を図り、にはローマ教皇との和解()を実現(信教の自由は継承)した。 外交面では1800年に再びアルプスを越えて北イタリアに入り、6月14日、 マレンゴの戦いでオーストリア軍と戦い、勝敗はつかなかったがオーストリア軍は退却した。 翌1801年の リュネヴィルの和約でライン左岸を獲得し、オーストリアはイタリアから排除された。 一方、3月にイギリスとので当面の講和を実現した。 政治の安定を受けて1802年に憲法を改正、終身統領制として自ら就任した。 にはを発布したが、それはナポレオン自身が編纂に参加したもので、法の下の平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由など、フランス革命の成果を固定させる民法典となった。 皇帝ナポレオン さらに革命理念の全ヨーロッパへの拡張を称えて、といわれる実質的な征服戦争を展開し、国内ではブルジョワ・小ブルジョワ・農民の幅広い支持を背景に、、として即位し皇帝となった。 国民投票で承認された上で、同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂でローマ教皇立ち会いのもとで戴冠式を挙行し、自らの手で戴冠した。 これによってフランス革命によって生み出されたは終わりを告げ、フランスはへと移行した。 ナポレオン1世 1804年、ナポレオンは国民投票を行った上で皇帝ナポレオン1世として帝政を開始。 この第一帝政のもとでフランスは革命精神の輸出と称して周辺のヨーロッパ諸国を侵略、ヨーロッパ征服を目指し、1807年ごろまでに大陸をほぼ制圧した。 しかし、イギリス征服はできなかった。 その野望は1812年のロシア遠征に失敗したことから急転し、各国に諸国民戦争と言われる解放戦争が始まり、パリも陥落したためナポレオンは1814年に退位した。 まもなく配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、1815年6月のワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。 時代はウィーン体制という反動期に向かっていく。 ダヴィッド筆によるナポレオンの戴冠式 ナポレオン1世は、、が皇帝となってからの称号。 ナポレオンの皇帝就任は「革命暦12年フロレアル28日の元老院令」で決議された。 共和国政府は国民投票を実施したが、圧倒的多数が皇帝就任を承認し、それは形式に過ぎなかった。 12月2日、で戴冠式が行われ、正式に皇帝ナポレオンが誕生、こうしてフランスはに移行した。 これはフランス革命の終末を意味していたが、ナポレオン帝政はフランス革命の成果を前進させる側面もあった。 図解:ナポレオンの戴冠式 1804年12月2日、ナポレオンは戴冠式をパリので挙行したが、それはがローマで行われた前例と異なることを意識してのことであった。 そしてわざわざローマから教皇ピウス7世をパリに招いて式を挙行した。 上の図はナポレオンの戴冠式を描いたの作品。 これはダヴィドの代表作としてよく知られているもので、中央にナポレオンが、ひざまづいたジョゼフィーヌに皇后の冠を授けようとしている。 すでにナポレオンは帝冠を戴いているが、それも自ら頭に載せた。 本来ローマ教皇から授けられるべき帝冠を自ら戴いたことはローマ教皇にとって屈辱であった。 右手に座っているのが教皇ピウス7世で不興げな顔をしている。 ダヴィドはフランス革命期に活躍した画家で、ロベスピエールに心酔していたためにでは捕らえられ入獄した。 その後、ナポレオンが台頭するとその専属画家に採用され、さまざまな記録的な絵画を残した。 Episode ベートーベン、第三交響曲の献辞を破棄 ナポレオンの1歳年下で、同世代の作曲家 ベートーベンは、ナポレオンを革命の理念である自由と平等を実現する英雄であると考え、賛美する第三交響曲の作曲を進めていた。 しかし、ウィーンでナポレオンの皇帝即位の報に接し、ナポレオンへの献辞を記した最初のページを破り捨てた。 完成した交響曲はその力強い曲調から、人々から『エロイカ(英雄)』と呼ばれるようになった。 第一帝政 ナポレオンの皇帝就任は周辺諸国に大きな衝撃を持って迎えられ、その大陸制覇を警戒したイギリスの首相ピットは、を破棄し、にを結成する。 それに対してナポレオンはイギリス侵攻をめざしたが10月21日で敗れて計画を放棄し、焦点を大陸内に移し、12月2日、ではオーストリア・ロシア連合軍を撃破した。 ナポレオンが南西ドイツ諸侯を統合してを結成すると、翌10月14日、にプロイセンが反撃したがでプロイセン軍を撃破したナポレオンはベルリンを占領し、11月21日に(ベルリン勅令)を出した。 さらにロシアに支配されるポーランドに侵攻し、ロシア軍を破り、にを結んで講和した。 これによってナポレオンの大陸支配が成立した。 ナポレオンのヨーロッパ支配 ナポレオン帝国の直接統治はオランダと北西イタリアに及んだ。 さらにポーランド()ドイツ西部・イタリア・には傀儡政権を置き、とオーストリアは同盟国となった。 ナポレオンはヨーロッパにフランス革命の理念を拡げたが、実際には一族を各国の支配者に送り込み、専制支配を行った。 それに対してヨーロッパ各地で反ナポレオンの民衆蜂起が起こり、フランス軍は弾圧に追われていた。 またナポレオン支配下のヨーロッパの諸民族の中に、主権と独立の確立を目ざす運動が激しくなった。 1806年にはオランダのを倒して傀儡国家をつくって弟ルイを国王にすえ、さらに1810年には直轄領としてフランスに編入した。 5月2日~3日、が起きるとナポレオンは1808年11月には自ら大軍を率いて侵攻したが翌年には撤退をよぎなくされた。 1810年には皇妃ジョセフィーヌと離婚し、オーストリア・ ハプスブルク家の皇女マリア=ルイザと再婚し、家柄に箔をつけようとした。 Episode ナポレオンの一族 ナポレオンは征服した各地に自分の親族を支配者として配置した。 彼自身はフランス皇帝であるとともに王を兼ね、義理の息子(皇后ジョセフィーヌの連れ子)ウジェーヌ=ド=ボーアルネを副王とした。 兄ジョゼフは国王とした後、国王とした。 二番目の弟ルイは国王、三番目の弟ジェロームはドイツ西部のウェストファリア国王、妹エリザはイタリア中部のトスカナ大公妃、三番目の妹カロリーヌの夫ミュラ元帥はベルク大公の後に国王となった。 ナポレオンは一族の力を借りてヨーロッパ統合の夢を実現しようとしたのだった。 <ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p. 106,> ナポレオンの没落 6月、ベルリン勅令に違反してイギリスへの穀物輸出を続けていたロシアを制裁するとして、を開始し、モスクワに達したが、ロシア軍の後退作戦にはまって失敗に終わり、無惨な敗北となった。 ヨーロッパ各国の反ナポレオンの動きが急速に強まり、10月ので決戦となった。 戦いはナポレオンの敗北となり、オーストリア・プロイセン・ロシア同盟軍がパリ入城し、4月2日、ナポレオンは退位し、に流された。 ナポレオン戦争の戦後処理のためが始まったが、各国の利害が対立して話が進まない間に、にナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にパリに帰還した。 ウィーン会議の列国はあわてて結束を固め、6月にでイギリス軍のウェリントンの指揮する同盟軍に敗れ、に終わった。 今度は南大西洋のに流され、厳しい監視の下におかれて1821年5月5日に死去した。 Episode ナポレオンの二度の結婚 ナポレオンは生涯で正式な結婚は二回あった。 一度目は1796年のジョセフィーヌ、二度目は1810年のマリー=ルイーズである。 最初の妻ジョゼフィーヌはフランス領のマルティニーク島の生まれで、ボーアルネ子爵と結婚し2児をもうけたが、夫が断頭台に送られ貧しい未亡人となっていた。 そのうちの総裁の一人バラスらと「親密な交際」で生計を立てるようになった。 そのバラスが反政府反乱鎮圧に登用したのがナポレオンだった。 バラスはナポレオンにジョゼフィーヌを「譲った」。 1796年、新婚のナポレオンはイタリア遠征軍の指揮官に選ばれ、その勝利をきっかけに栄達を開始する。 ジョゼフィーヌは「けたはずれの浪費家で貞節も守らなかった」がナポレオンは彼女を深く愛した。 遠征先からの愛情を込めた手紙が多数残されている。 しかし、二人の間には子供が産まれなかった。 ジョゼフィーヌは不妊に効果があるという温泉にでかけたりしたが無駄だった。 それでもナポレオンは離婚は考えていなかった。 1804年12月、ナポレオンが戴冠すると同時にジョゼフィーヌも皇后となった。 上の図でナポレオンの膝下にぬかずいているのが皇后ジョゼフィーヌである。 しかし、皇帝となったナポレオンには世襲の重荷がのしかかってくる。 なんとしても帝位を実の子供に継承させたいと願った。 そんなときナポレオンと関係のあった女性たちが出産し、不妊の原因は皇后にあることがわかった。 1809年12月、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚した。 この日の来ることを恐れていたジョゼフィーヌは、ナポレオンからその決意を直接聞いて気絶したという。 それは演技だったという説もある。 ジョゼフィーヌはパリ郊外のマルメゾンに広大な別邸をあたえられていたが、離婚後もそこで暮らし、1814年まで生きた。 現在ではその別邸は博物館になっているという。 政治的効果を狙うため、新しい皇后はヨーロッパの大国から迎えることが望ましかった。 初めはロシアの皇女が候補にのぼったが破談し、結局オーストリア皇女マリー=ルイーズに決まり、1810年4月、結婚式が行われた。 マリー=ルイーズは大叔母を処刑した国の皇后となったわけである。 父のフランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝だった人)が「コルシカの怪物」といっていたナポレオンだったが、実際には優しく迎えられ、円満な家庭生活を送った。 もっともナポレオンは「私は(子供を産むための)腹と結婚したのだ」と広言してはばからなかった。 そして1811年3月20日に待望の男の子が生まれると、ナポレオンはその子に「ローマ王(ロワ=ド=ローム)」の称号を与えた。 パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。 」 なお、マリー=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。 また「ローマ王」は父の失脚後、ウィーンの宮廷で生活し、1832年に21歳で生涯を終えた。 <ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p. 23,47,108,> Episode ナポレオン、死んで凱旋門をくぐる ナポレオンはの翌年の1806年、その勝利を記念してパリに凱旋門の建造に着手した。 それが現在のエトワール広場の凱旋門である。 しかし、その完成を待たず、セントヘレナ島に流され、1821年にその地で死んだ。 凱旋門が完成したのは、ようやく1836年のことだった。 つまり、ナポレオンは生きて凱旋門をくぐることはなかった。 時代の1840年、ナポレオンの遺体はパリに移されることになり、その時、遺体は凱旋門をくぐって、アンヴァリッド聖堂に埋葬された。 参考 ナポレオンの述懐 オクターヴ・オブリ編の『ナポレオン言行録』はナポレオンが自らを語ったり書いたりした断片を集めたものだが、意外に自画自賛だけではない、彼の歴史を見通す眼と率直な思いを知ることができる。 6「戦争について」の最後に、恐らくセントヘレナにおけると思われる、ナポレオンの次のような言葉がある。 引用 戦争はやがて時代錯誤になろうとしている。 われわれが全大陸で数々の戦闘を交えてきたのは、二つの社会が相対峙していたからである。 すなわち、1789年からはじまった社会と旧制度とが。 この二つの社会は両立できないものであった。 若い社会が古い社会をむさぼり食った。 しかし、そんなことはどうでもよい! 私が打ち倒されたことは文明が闘いに敗れたことである。 私の言葉を信じ給え、文明は復讐をするであろう。 二つのシステムがある、すなわち過去と未来とである。 現在はつらい過渡期にすぎない。 何が勝ち誇るべきであるか?未来が勝ち誇るべきではないか? とすれば、未来は知性であり、産業であり、平和である。 過去は暴力であり、特権であり、無知であった。 われわれの戦勝のおのおのは革命の思想の勝利であった。 勝利はいつの日にかは大砲もなく銃剣もなしに達成されるであろう。 <オクターヴ・オブリ/大塚幸男訳『ナポレオン言行録』1983 岩波文庫 p. 258-259>.

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ナポレオンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ナポレオン

It requires more courage to suffer than to die. ナポレオンの名言 世界には二つの力しかない。 剣と精神の力である。 そして最後は、精神が必ず剣に打ち勝つ。 There are but two powers in the world, the sword and the mind. In the long run the sword is always beaten by the mind. ナポレオンの名言 人間は、その想像力によって支配される。 The humanrace is governed by its imagination. ナポレオンの名言 優れた能力も機会が与えられなければ価値がない。 Ability is nothing without opportunity. ナポレオンの名言 じっくり考えろ。 しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め。 Take time to deliberate, but when the time for action comes, stop thinking and go in. ナポレオンの名言 勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる。 Victory belongs to the most persevering. ナポレオンの名言 状況?何が状況だ。 俺が状況を作るのだ。 Circumstances — what are circumstances? I make circumstances. ナポレオンの名言 想像力が世界を支配する。 Imagination rules the world. ナポレオンの名言 最も大きな危険は、勝利の瞬間にある。 The most dangerous moment comes with victory. ナポレオンの名言 敵が間違いを犯している時は、邪魔するな。 Never interrupt your enemy when he is making a mistake. ナポレオンの名言 兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見つめている。 Soldiers, from the summit of yonder pyramids forty centuries look down upon you. ナポレオンの名言 我輩の辞書に不可能という文字はない。 The word impossible is not in my dictionary. ナポレオンの名言 勇気は愛のようなものである。 育てるには、希望が必要だ。 Courage is like love; it must have hope for nourishment. ナポレオンの名言 約束を守る最上の方法は、決して約束しないことだ。 ナポレオンの名言 敵意のある四つの新聞は、千の銃剣よりも恐ろしい。 Four hostile newspapers are more to be feared than a thousand bayonets. ナポレオンの名言 玉座とはビロードで覆われた長椅子に過ぎない。 A throne is only a bench covered with velvet. ナポレオンの名言 宗教は、貧しい者が金持ちを殺害することをおもいとどまらせる。 Religion is what keeps the poor from murdering the rich. ナポレオンの名言 死ぬことは何でもない。 しかし征服されて、名誉を失ったまま生き長らえるのは、毎日死ぬようなものだ。 Death is nothing, but to live defeated and inglorious is to die daily. ナポレオンの名言 リーダーとは「希望を配る人」のことだ。 A leader is a dealer in hope. ナポレオンの名言 お前がいつの日か出会う禍は、お前がおろそかにしたある時間の報いだ。 ナポレオンの名言 人生という試合で最も重要なのは、休憩時間の得点である。 ナポレオンの名言 重大な状況において、ほんのちょっとしたことが、最も大きな出来事をつねに決定する。 ナポレオンの名言 戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常に敗れる。 ナポレオンの名言 私は何か問題を考えたい時、心の引き出しを一つ開ける。 問題が解決するとその引き出しを閉め、また次には別のを開ける。 眠りたい時には全部の引き出しを閉める。 ナポレオンの名言 次ページへ続きます。

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ナポレオンズ

ナポレオン

1804年から1814年にフランス皇帝の座へ付き、その後に一旦は島流しに合うものの、翌年の1815年にフランスへ帰国し、およそ100日間だけ再度フランス皇帝の立場でフランスを主導しました (百日天下)。 そして、歴史的にナポレオン・ボナパルトを非常に有名な人物にした最大の理由が、1803年から1815年までにかけて続いた ナポレオン戦争 (ヨーロッパ全域を舞台にして断続的に発生した各戦争の総称で、どの戦争もナポレオンを中心としていた)。 ナポレオン戦争の中で起こった戦争のほとんどにおいて、ナポレオン率いるフランス軍が勝利したことで、 一時期はヨーロッパ情勢および世界情勢へ非常に大きな影響力を与えるようになったのです。 また、ナポレオン戦争での度重なる勝利によって、 人類史上で最も優れた軍人そして指揮官の一人だと言われ、今日でも世界中の軍事学校で研究が続けられています。 フランス本土へ送られたナポレオン 父のカルロ・ブオナパルテは当時、判事として働いていました。 ( ナポレオンの父カルロ: 出典:) 家柄に加えて父カルロの仕事によってブオナパルテ夫妻は、当時のコルシカ島の中では比較的裕福でした。 軍人教育を圧倒的短期間で終了したナポレオン 神学校へ入学したものの、ナポレオンはすぐに陸軍幼年学校に転校してしまいます。 そこで抜群の成績を収めたナポレオンは1784年、パリにあるフランスの陸軍士官学校へ入学し、それからわずか1年後の1785年には、コルシカ人として初めてフランスの陸軍士官学校を卒業した人物になりました。 フランス革命の一派であるジャコバン派 (フランス革命期の政治結社)を支持していた• ナポレオンのブオナパルテ家も親仏派だった ことなどから、コルシカ島の独立運動を指導するパスカル・パオリやその腹心と対立が起き、1793年にナポレオンと家族は、コルシカ島を追われてフランス本土のマルセイユに移住します。 一方で、 コルシカを離れたことはナポレオンに運をもたらしました。 その同年(1793年)、ナポレオンは「 貴族士官の亡命」という恩恵を得て、共和制フランスの指導者マクシミリアン・ロベスピエールの下で、 何もせずに大尉に昇進したのです。 (出典:) その後、いくつかの功績を立てて少将相当の身分となっていた1794年、急進的な革命を行ったジャコバン派のロベスピエール (ジャコバン派のリーダー)がテルミドールのクーデター (ジャコバン派に対立する勢力によるクーデター)倒れると、ロベスピエールの弟と親交のあった ナポレオンは逮捕されてしまいます。 しかし、1795年に「王党派 (王政を支持する政治党派)」を中心にした勢力の蜂起「 ヴァンデミエールの反乱」が起こると、ナポレオンは革命政府から王党派を遠ざける任務を受けます。 この任務の中でナポレオンは、パリ市内に砲兵を配置したバリケードを張ることにしました。 これがパリの市内そして一般市民に大きな影響を及ぼすと知りながら、 ぶどう弾 (弾子を詰め込んだ砲弾)を大砲で打つという大胆で暴力的な戦法をとって反乱を鎮圧したのです。 この実績によってナポレオンは、師団陸将(中将相当)に昇進し、他にも• 国内軍副司令官• 国内軍司令官 といった役職につくようになりました。 軍における立場を確固たるものとして統領になったナポレオン 1796年、イタリア方面軍の司令官に抜擢された彼は、イタリア北部にとどまっていたオーストリア軍を討伐する任務を与えられました。 彼の部隊は 人数で劣っていただけでなく、武器も少なく、加えて訓練も不足している状態。 オーストリア軍に比べて明らかな劣勢でしたが、ナポレオンはアルプス山脈を越えるという意外な戦略を取ることで連戦連勝を重ね、北イタリアの諸都市を解放して市民から歓迎されると同時に、フランスは1797年にイタリア北部の広大な領土を獲得。 この功績によって、 フランス軍の中でも名将としての地位を確固たるものにしました。 (出典:) そして、オーストリアでの成功を受け、フランスは1798年にナポレオンを (当時はの支配下にあった)に送ることにします( エジプト遠征)。 エジプトはイギリスとインドの貿易の拠点である• よって、この貿易ルートを遮断すればイギリスに大きな打撃を与える という考えをナポレオンが政府に進言して認められたのが、このエジプト遠征の始まりです。 1798年7月、ナポレオン率いるナポレオン軍はエジプトへ上陸し、 ピラミッドの戦いにおいて、エジプトのマムルーク軍に対して勝利を収めます。 しかし、その勝利から10日後、イギリス海軍がフランス海軍を破ったことで、 ナポレオン軍はエジプトに孤立。 同年12月には、イギリスの呼びかけによって、フランスの勢力拡大を脅威と感じたヨーロッパ諸国が 第二次対仏同盟を結成し、加えて フランス国内では革命による大規模な混乱が生じたため、 ナポレオンは自軍をエジプトに残したまま、側近のみを連れて単身フランスへ戻ります。 一方、フランスへ舞い戻ったナポレオンは、特に17〜19世紀において革命の主体になりうるほどの数と広がりを持った「中産階級(ブルジョワジー)」達の支持を受け、 1799年11月9日、エマニュエル・シエイエスらと共に、軍事クーデター「 ブリュメールのクーデター」を起こして統領政府を樹立。 ナポレオンは、 第一統領に選出されました。 独裁色を強めていくナポレオン 第一統領となってからナポレオンは、フランスの内政面でも改革を進めていきます。 国内の工業生産の発展に尽力し、また、経済と金融の安定をはかり、法整備にも着手していったのです。 1804年には、「 ナポレオン法典」として知られる「 フランス民法典 (フランスの私法の一般法を定めた法典)」を公布しました。 ナポレオン法典はフランスの法律を完全に刷新し、またヨーロッパ中の法を変えることとなった革新的なものでした。 また、この法典は農奴制を廃止したため、フランスに残っていた封建制は完全に崩壊したのです。 一方で、第一統領になってからというもの、ナポレオンの命は常に狙われる対象となっていった結果、 ナポレオンは自らの手中に権力を集中させ、国内の安定化を図ろうとしていきます。 その結果、 自らを「終身統領」として規定するなど独裁色を強めていくことになるのです。 フランス皇帝「ナポレオン1世」の誕生 事実上の独裁者となったナポレオンは1804年5月、フランス皇帝の地位につきます (ただし、フランス皇帝の地位につくにあたっては国民投票を行い、また国会の議決も経ている)。 そして、戴冠式にはローマ教皇も立ち会いましたが、 教皇から王冠を戴くというそれまでの儀礼を無視し、 自らの手で王冠をかぶり皇帝に即位したのです。 この時から1815年にかけてまで、「 ナポレオン戦争」と呼ばれる数々の断続的な戦いが、ヨーロッパ全域で行われるようになります。 しかし、1812年、ナポレオン率いるフランス軍はの領土に侵攻して大敗北を喫します。 この大敗の最大の原因は、「冬将軍」とも呼ばれるロシアの冬の厳しい寒さでした。 そして ナポレオンの不敗神話が崩れたことで、フランス帝国の崩壊が始まっていくのです。 退位、流刑、そして死 ロシアでの敗北後の1813年10月、ライプツィヒの戦いで、反仏諸国の連合軍にフランス軍は破れてナポレオンはフランスへ逃亡。 1814年、イギリスやドイツ(プロイセン)などの同盟軍が、フランス国境を固めて大包囲網を敷き、ナポレオン軍を包囲します。 同盟軍の規模はナポレオン軍の何倍にもなったと言われます。 その結果、 フランス帝国の首都であったパリが陥落し、ナポレオンは退位を余儀なくされ、イタリア本土の海岸からおよそ11km離れたエルバ島に島流しにされます。 その後の1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出してフランスへ戻り、再び皇帝に即位して対仏連合国へ講話を持ちかけますが連合軍はこれを拒否。 「連合軍対フランス軍」の ワーテルローの戦いが起こり、この戦いの中でウェリントン公爵率いる連合軍に敗れ、1815年6月22日にナポレオンは再び退位させられてしまいます。 そして、ナポレオンがまたフランスに戻ってくることを防ぐため、今度はセントヘレナ島に送られてしまいます。 セントヘレナ島は西アフリカ沖1162マイルの位置に浮かび、フランスからは非常に遠い場所にある孤島でした。 そして1821年5月5日、ナポレオンはセントヘレナ島で息を引き取り、ここに生涯の幕を下ろしました。 ナポレオンが51歳の時でした。 ナポレオン・ボナパルトについて知っておきたい5つの話 ナポレオン・ボナパルトの生涯を駆け足で見てきましたが、最後に、ナポレオンに関して興味深い5つの話を紹介していきたいと思います。 ナポレオン1世の身長は低いというイメージだが・・・ ナポレオンは一般的に、身長が低かった人物として描かれることが良くあります。 実際、彼の身長は 168cmだったとされ、一見すると確かに低いように感じます。 しかし、当時の平均身長は現在の平均身長より低く、 168cmというのは、当時のヨーロッパ男性としては平均的で、そこまで小さな人物ではなかったというのが正しいようなのです。 ナポレオンの身長が低いというイメージはどうやら 、反仏の筆頭であったイギリスのカリカチュア (人物の性格や特徴を際立たせるために誇張や歪曲を施した人物画)の中で、他の人物よりずっと低い身長で描かれたことがその後広まった結果らしいです。 ナポレオンは女好き? ナポレオンは生涯の中で 二人の妻を持ち、そして複数の愛人を抱えていたことから「 女好き」な側面があったと言えるでしょう。 ただし、これは心より愛していた最初の妻の裏切りが原因なのかもしれません。 ナポレオンが、 自分より6歳年上の最初の妻「 ジョゼフィースゼフィーヌ」を深く愛していたことは有名。 熱烈なラブレターを何通も彼女に送っています。 しかし 、ジョゼフィーヌが何度も不倫をしていたことを知ったナポレオンは激怒し、これによって、自らも愛人を持つようになっていったと考えられなくもないのです。 ちなみに、ナポレオンが皇帝となった後にジョゼフィーヌが後継を産めないことが分かると、皇后ジョゼフィーヌとナポレオンは離婚し、ナポレオンはオーストリアの皇女 マリー・ルイーズと結婚しています。 フランス軍がワーテルローで敗れたのはナポレオンの痔のせい? ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いに関しては、こんな噂があります。 それは、 ワーテルローの戦いでナポレオン軍が破れたのは、ナポレオンが 激しい痔の痛みに襲われたから というもの。 「 ワーテルローの戦いの朝、ナポレオンは激しい痔の痛みに襲われ、そのせいで戦場に注意を向け続けることができなかった」らしいのです。 ナポレオンと戦ったウェリントン公爵は後になって、「 生涯で最も接戦となった戦いだった」とワーテルローの戦いを振り返っていますが、もしも本当に上の噂が本当だとして、そのことをウェリントン公爵が知ったらどんな感想を持ったのでしょうか・・・。 ワーテルローの戦いの後にアメリカへ逃亡しようとした ワーテルローの戦いでイギリスやプロイセンの連合軍に完敗した後、ナポレオンは アメリカへ亡命しようとしたらしいです。 自分と部下達が大西洋を渡るのに必要な二隻の艦を要求し、自分の持ち物を詰め始めることさえしました。 しかし、英国海軍が港を封鎖してナポレオンの出航を拒否したために、計画は実行されませんでした。 ナポレオンのカリスマ性を表す一つの話 ナポレオンに関して残る、一つ面白いお話を最後に紹介しておきましょう。 1815年のある日のこと、元フランス皇帝のナポレオンは流刑地であったイタリア沖のエルバ島を脱出し、パリに向かって軍の行進を進めていました。 この行進は後に「 百日天下」と呼ばれることになる一時的支配行為の始まりでした。 行進の最初は反勢力に一度も出会わず進みます。 しかしある時、とある小さな町の郊外で、 ナポレオンの軍隊はルイ18世 (連合国軍側によって復権させられたブルボン朝のフランス国王)によって送られた、フランス国王軍に直面します。 ナポレオンは自らの軍に銃を下ろすように命令しましたが、国王軍の銃はナポレオンの胸に向けられていました。 そこでナポレオンの取った行動は、ナポレオンのカリスマ性を物語る驚くべきものでした。 なんと、国王軍の銃の前に立った彼はシャツをはだけて次のように叫んだのです。 兵士諸君! 諸君らの皇帝はここにいる!さあ撃て! これを聞いて兵士らは銃を下ろし、「 皇帝万歳!」と叫びながらナポレオン側に寝返ったのです。 このようなナポレオンの勇気と大胆な行動が、フランス国民の心を掴み、そしてナポレオンを歴史上で最も偉大な人物の一人にしたのでしょう。 合わせて読みたい世界雑学記事• ナポレオンが権力を掌握するまでの過程は、まるで彗星のように輝かしいものでした。 しかし、ナポレオンの不敗神話に傷が付くと、頂点に上り詰めた時と同じような速さで権力を失って生涯を閉じました。 世界史において、特にヨーロッパの歴史において、ナポレオンは最も重要で影響力の強い指導者の一人であることは間違いないでしょう。

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