渡辺 みどり。 渡辺みどり

渡辺みどりとは

渡辺 みどり

法廷では、肉体関係を認めた父だったが 平成元年11月27日、東京地方裁判所民事第一部法廷において、認知訴訟の口頭弁論が始まりました。 〈裁判記録より〉 (古屋亨が、濃いねずみ色の背広を着て、老いさらばえた様子で着席) 裁判官 被告(古屋亨)は昭和九年三月、東京大学法学部を卒業し四月に内務省に入省、その後警察本部長、刑事部長内閣調査室長、総理府総務副長官などを歴任されています。 被告は渡邉貞さんと、最初にどのような経緯で出会ったのですか? 古屋亨 貞さんと出会った当時の私は学生で、高文(高等文官試験)の口述試験を間近に控えていました。 前年に高文の筆記試験は通ったのですが、口述ではねられたので、その年は口述試験のために一生懸命勉強しておりました。 私は勉強第一でしたが、「体のために運動するのがいい」と友人に誘われ、ダンスを習うようになりました。 その後、「フロリダ」という赤坂のダンスホールに行ったときに、渡邉貞さんと知り合ったのです。 たしか仙台の方で看護婦をしていたことがあると聞いた覚えがあります。 私は、貞さんと数回関係を持ったことは認めております。 (原告の方を向き)貞さんのその後の状況や、君の話からして、必ずしも私の子どもであるという自信はなかったんだ。 渡邉みどり 私は、昭和9年6月11日生まれで、32年3月に早稲田大学の教育学部を卒業し、その後、日本テレビ放送網株式会社に入社しました。 現在は日本テレビで、報道局ニュースセンターエグゼクティブ・プロデューサー(副理事)をしています。 母は渡邉貞です。 父は、古屋亨と考えております。 古屋亨と渡邉貞は客とダンサーという不幸な出会いをして、その結果、私が生まれました。 古屋 (背を丸め、しらっとした様子で)いや、私は渡邉貞さんと数回肉体関係がありましたが、渡邉みどりが自分の子どもであるとは思っていません。 ただわしは、貞さんと関係があったから、そうでない証拠を出せと言われると非常に困りますが。 (原告の方を向き)君が子どものころから現在まで、自分の子どもだと思ったことは一度もないがね。 渡邉 嘘つき! 私の結婚式にも出席し、入院中の母を見舞い、母の告別式や初七日にもお参りに来たじゃないの。 古屋 (切り口上で)私には、記憶がありません。 貞さんが亡くなったことは妹から聞きました。 裁判の準備調書には、私が告別式や初七日に出たと書かれていましたが、私はそれらに出た覚えもございません。 渡邉 あり得ない! 告別式には弁護士の芦刈先生と一緒に来たじゃないの。 写真が残っているのに……。 古屋 ……(無言で、下を向いて震えている)。 若き日の渡邉みどり氏 その後、帝京大学医学部の親子鑑定の結果が出ました。 血液採取、唾液、頭の形、指紋採取の結果、古屋亨・渡邉みどりの府県校庭の確率は、99. 9パーセントを示しました。 法医学では「子どもでない確率」は100パーセントと出ても、「子どもである確率」は、100パーセントは出ません。 この鑑定結果は、間違いなく古屋亨は渡邉みどりの父親であることを証明していたのです。 そして、認知訴訟における私の勝訴を決定づける大きな根拠となりました。 私の戸籍謄本には、 「平成3年2月14日、古屋亨認知の裁判確定。 同月27日届出。 同年3月11日記載。 昭和9年6月11日、東京市渋谷区で出生。 平成3年5月22日許可。 同月30日入籍」 と記入されました。 裁判確定の約四カ月後の平成3年6月20日、実父古屋亨は他界します。 最期の場所は、実母渡邉貞が33年前に入院し亡くなったのと同じ順天堂大学病院でした。 古屋亨82歳、私は57歳でした。 古屋の父は、人生の終わりのぎりぎりのところで、私を、血を分けた我が子と認めたのです。 私自身もすでに57歳であり、もうすぐ定年を迎えるほど年を重ねていました。 それには引き金となる壮絶な体験があったのです。

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『かくし親 「日本一美智子さまを知る」皇室ジャーナリストは大物政治家の「かくし子」だった!』(渡邉 みどり)|講談社BOOK倶楽部

渡辺 みどり

もくじ• 1.渡辺みどりさん 皇室 の 父・古屋亨さん 政治家 とは? 現在、皇室ジャーナリストとして活動 また、過去には 日本テレビの番組制作における エグゼクティブプロデューサーとしても ご活躍された、 渡辺みどりさん。 その経歴や、知り合いを通じて 上皇后美智子様 とも 深い親交があったといいます。 そんな 渡辺みどりさん の父親である、 古屋亨さんという方は ご存知でしょうか? 元・政治家、衆議院議員、警察官僚、 弁護士などといった地位にいた方 だったそうで 第二次中曽根内閣時代には 総理府総務副長官にまで上り詰めた、 政界でもエリート街道を突っ走った人物 だったといいます。 1909年1月6日、 岐阜県恵那市ににて誕生。 戦前は 旧「立憲民政党」所属の代議士だった 古屋慶隆氏の長男として生まれ、 東京帝国大学法学部法律学科、 政治学科を卒業した後、 内務省へ入省。 戦後は、 警察官僚として「警視総監代理」 を務めています。 その後は、第2次中曽根内閣に組閣され 内閣総理大臣官房調査室長に就任し 内閣官房内閣調査室の初代室長着任を経て 総理府総務副長官としてご活躍された後、 1966年に退官され、弁護士となられました。 実は 渡辺(渡邉)みどりさんの 母親は 渡邉貞さんという方なのですが、 渡辺(渡邉)みどりさんは 現在も母方の姓を名乗っています。 その理由は 渡辺(渡邉)みどりさん は 父・古屋亨氏の 隠し子であり、 また、 古屋亨氏は自分の子供であることを 認めす、 母は 渡辺(渡邉)みどりさん を 未婚のまま出産されたそうなのです。 正しくは、 古くから政治一家として 名を馳せていた父方の古屋家が 看護婦をしていた母親との 血筋や身分の違いから 2人の結婚を認めなかったために 未婚の子(古屋亨氏の隠し子) として 渡辺みどりさんはこの世に生を受けた ということだそうなんですね。 今でこそ何らかの問題に発展しそうな話ですが 昔の日本ではこのようなことは それほど珍しいことでもなかった時代も ありましたからね。 それでも、決して お母様のことを 恨むようなことはせず、 ずっと母と二人三脚での生活を 送っていました。 お母様はとても教育熱心だった方だそうで 渡辺みどりさんが 進路に迷い、 実家の看護師相談所を 継ぐかどうか考えていたところ、 「自分のやりたいことをやりなさい」 というアドバイスをしたそうです。 その結果、 渡辺みどりさんは 早稲田大学に入学し、 のちに 日本テレビに就職することができました。 そんな 渡辺みどりさんの幸せを 一番に考えてくれた お母さまでしたが、 不運なことに、54歳の時 がん性腹膜炎のため他界されています。 この時、 渡辺みどりさんは27歳でした。 渡辺みどりさん と同じ 女性として 競輪の世界で活躍された 高松美代子さん の記事がよく読まれています。 スポンサーリンク 3.渡辺みどりさん 皇室 と 小室圭さんとの関係は? 小室圭さんといえば、 秋篠宮さまの長女・真子様との婚約内定が 母の金銭トラブルが発端となり 延期になっているなど、 何かと話題になっている方ですよね。 渡辺みどりさんは 小室圭さんと 直接のお知り合い というわけではないようですが、 皇室ジャーナリストとして 以下のような見解を見せています。 「皇族のトップの方たちの結婚は、 スムーズに行かないことのほうが多いのです。 しばらく時間をかけてでも、 眞子さまと小室さんはいずれ 一緒になられるのが良いのではと思います」 「昭和天皇が香淳皇后とご結婚されるときも、 山縣有朋が婚約辞退を迫った 宮中某重大事件や関東大震災などで 度々延期されましたが、 結婚されて60年以上も添い遂げました。 5年、6年かかることも不自然ではありません。 皇室では一度決めたことを 覆すのは良しとされず、 婚約解消となれば とても近代的な対応でしょう。 ただ、それでは眞子さまはずっと 『婚約していたのに……』と 過去のことを言われ続けてしまう のではないかと心配です。 この困難を乗り越えて 初志貫徹するのが、幸せになれる道 ではないかと思うのです」 「皇族のトップの方たちの結婚は スムーズにいかない」 言われてみればそうなのかも、と思いました。 これは逆に言えば、 「そんな簡単に決められるものでもない」 とも言えますよね。 後続の結婚というとても重要な事ですから 慎重になるのもわかります。 そもそも、 当のお二人は 互いに惹かれあっているわけですから、 身内の金銭トラブルという問題を いち早く解決させて、 再び国民の前に幸せなお姿を披露して 頂きたいと思います! スポンサーリンク 4.渡辺みどりさん 皇室 と 愛子さまとの関係は? 皇室ジャーナリストとして 現在も活動されている 渡辺みどりさんにって、 現・徳仁天皇と皇后・雅子様との子、 愛子さまの存在はとても気になるようですね。 皇后・雅子様が 愛子さまをご出産された後も 自著 『美智子さまから雅子さまへ三部作2 美智子さまもご祝福 雅子さまに愛子さま誕生』 を出版。 そして、過去にマスコミから 謂れのない数々のバッシング受けてきた 愛子さま。 そんな愛子さまのご様子を公開した 一枚の写真に対し、 渡辺みどりさんは こう語っている。 「今回公開されたお写真は、 今まででいちばん美しく 大人っぽい愛子さまだとお見受けしました。 やせすぎのようにも見えますが、 表情、ヘアスタイル、姿勢、笑い方からは 自信をもった達成感のようなものを感じましたね」 「ダイエットをされたのだと思いますが、 これも内親王としてのご自覚が さらに出てきた結果と言える のではないでしょうか。 そして、 皇位継承についても 愛子さまのことも含めて こう語っています。 「じつは上皇陛下は以前から、 皇統を絶やさないため、 女性天皇を認めるという お考えをお持ちです」 愛子さまが尊敬し、 強く影響を受けているのが上皇后・美智子さま。 その美智子さまは、愛子さま自身の ご意思を大切にしたいはずです。 教育を受け、 公務で経験を積んでから、皇位継承について 考えるのがいい。 美智子さまはそのようなお気持ちで 見守っておられるのでしょう」 日本の歴史を紐解けば、 過去に女性天皇は存在しています。 しかし、皇后・雅子様は愛子さまを 皇室から出してあげて 民間人との結婚をさせたい との意向もあるようですし、 一方で天皇在位中、 上皇・明仁様(前天皇陛下)と 上皇后美智子様は、 秋篠宮家のご長男・悠仁さまが 成長された後からは 愛子さまにそばで支えてほしい というご意向もあったようですね。 こればかりは我々 民間人がどうこう言えることではいので 成り行きを見守るしかないですけどね。 いかがだったでしょうか? 今回は、2019年11月時点で 85歳というご年齢でもなお 現役の皇室ジャーナリストとして ご活躍中の 渡辺みどりさんを リサーチしてみました。 最も皇室に近い民間人として 今後も多くの方々に皇室の 様々な情報をお伝えして下さることでしょう。

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渡辺みどり

渡辺 みどり

人物 [ ] 1959年8月27日、日本人の父純一と、スペイン系フィリピン人の母リディアとの間に二男二女の末子としてにて生まれる。 両親は父がとしてでへ出征した際にの地主の娘である母と出会った。 その後戦時中に結婚して戦後来日した。 母の影響で一家そろって敬虔・厳格な信徒。 父は2005年7月、心不全のため85歳でフィリピン・ネグロス島にて他界。 幼少時に渡米し、ゴールデンバレー高校卒業 後に国際学部に入学。 その後、1979年にスケート界の名門でもあるに移籍。 1980年生まれの女児につけられた名前で一番多かったのは彼女にあやかった『絵美』だった。 幼少時から渡米しを主体とした生活を送っていたためにがぎこちなかったが、当時の日本人女性選手の殆どが強張った表情で演技していたのと違い、渡部は出来の良し悪しに関わらず『絵美スマイル』と呼ばれる満面の笑みで演技し、人気を博した。 現役時代は、スケーティングの質が似ていたことと愛らしい笑顔とで『和製』と呼ばれた。 現役引退後は、として小中学生を対象としたスケート教室等を開催しており、等にも出演した。 2005年1月、によるがあったことを週刊誌上で発言。 永年日本のウィンター・スポーツの運営をほぼ独占してきた堤が渡部に立腹、渡部がリンクのロッカーすら使えないようにするなどのがあったと主張した。 OBと結婚・息子一人を授かったが、相手の事業失敗が原因で離婚。 絵美は当時、「カトリック信者の母は(絵美の)離婚に相当落胆し、再婚もしてほしくない(離婚・再婚はカトリックでは歓迎されない傾向が強い)とボヤいていた。 」と語っていた。 経歴 [ ] アマチュア時代 [ ] 10歳年上の姉の影響で2歳でスケートを始め、8歳から本格的にスケートを習う。 10歳のときにコーチの提案でミネアポリスにスケート留学をする。 元世界チャンピオンで銅メダリストのの指導を受けて才能をのばす。 1972年、12歳で競技会にデビュー。 初出場の、で優勝。 その後、では引退するまで8連覇を果たした。 この連覇記録は女子ではと並び現在も破られていない。 1976年、に16歳の若さで出場し、13位に入る。 1977年、東京で開催されたでは12位と不本意な成績に終わる。 しかし、彼女の基礎技術の正確さとジャンプの質の良さがの役員達の目にとまり、この時期から暫くの間ISUのマニュアルに「2回転アクセルは、渡部絵美のように跳ぶのが理想的である」と表記されるようになったという逸話がある。 高校卒業後、引退を考えたが、の誘いでアメリカに再留学する。 1979年のでは、日本女子のフィギュアスケート選手として史上初となる銅メダルを獲得。 メダルが確実視された翌1980年のでは、で得意の2回転アクセルからのに失敗、フリーでは2種類の3回転ジャンプを決めほぼノーミスの演技だったが(5位)以来の6位入賞に留まった。 1980年の世界選手権でもフリーで、の2種類の3回転ジャンプを決め4位となり、3ヶ月後の1980年6月23日、フィギュアスケート界からの引退を発表する。 引退後 [ ] 2001年、にから立候補し落選。 個人名得票6501(自由連合候補者名簿内47名中14位)。 2006年の日本代表選考に関して様々なメディアで浅田真央が代表になれると主張したが、これは渡部の個人的意見であった。 トリノオリンピック代表の選考は2004年の時点で定められていたオリンピックポイント制(出場した大会の順位毎にポイントを与え、総得点の多い選手を代表とする)によるもので、年齢制限に関しても特例を認めないことが事前の国際会議で決まっていた。 そのため、たとえアメリカに移籍しても浅田は出場権を得られなかった。 引退後は、等でと一時期ペアを組んだり、ジュニアの育成に力を入れていた時期もあったが、1990年代ころからタレント活動、講演も行い、活動の中心はスケート教室で東京を中心に子供たちを教えている。 渡部絵美のちょう美人宣言(扶桑社、1985年)• 愛するスケートに何が起こったのか? 女子フィギュア・トリノ選考の真実(デジほん、2006年2月) 主なテレビ出演 [ ]• (1980年 - 1981年、)• (1980年 - 1981年、TBS) - 黒木恵 役• 「II」(1982年、)• 第52話「週刊誌が恐い! の巻」()• (1983年、TBS)• 第20話「途中下車のトリック・疑惑の美人目撃者」(1990年、テレビ朝日)• 第103話「ひとりぽっちの夢飾り」萩絵役(1990年 )• (1999年、TBS) -準レギュラーではあったがわずか2回(1999年4月20日、5月4日)で降板• 「マリーナ」(1980年 - 1983年)• 「ガスファンヒーター」(1982年 - 1984年) 脚注 [ ]• 『愛するスケートに起こったのか? 朝日新聞 1979年12月25日 19• 208 人生の相棒 第121回• 鎌田忠良著「氷上に刻まれた薔薇」『潮』昭和55年4月号 pp. 257-259• 読売新聞夕刊 1998年1月29日 3 「転換点 渡部絵美」• 『愛するスケートに起こったのか? 』pp. 108-110• 『愛するスケートに起こったのか? 52, p. 主演は。 共演者のと渡部絵美は同学年。 - バイオグラフィーとオリンピックでの成績 (英語) 1934:• 1935:• 1936-1940:• 1946:• 1947:• 1950:• 1952:• 1953-1954:• 1955-1958:• 1959:• 1960:• 1961-1965:• 1966-1967:• 1968-1971:• 1972-1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1983:• 1984-1991:• 1992-1993:• 1994:• 1995:• 1996:• 1997-1998:• 1999:• 2000-2002:• 2003-2004:• 2005:• 2006-2009:• 2010:• 2011-2012:• 2013:• 2014-2017:• 2018:• 女子シングル• 1932:• 1933:• 34:• 35:• 36:• 37-38:• 39:• 40-46: 中止• 47:• 48: 中止• 49:• 50-51:• 52:• 1953:• 1954:• 55:• 56:• 57:• 58:• 59:• 60:• 61-62:• 63:• 64:• 65:• 66:• 67:• 68:• 69:• 70:• 71:• 72:• 73:• 74:• 75:• 76:• 77:• 78:• 79:• 80:• 81:• 82:• 83:• 84:• 85:• 86:• 87:• 88-89:• 90:• 91:• 92:• 93:• 94-96:• 97:• 98-99:• 2000:• 01-03:• 04:• 05:• 06:• 07:• 08:• 09:• 10:• 11-12:• 13:• 14-15:• 16:• 17:• 18:• 19:• 開催年は年度• 女子S 1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1983:• 1984-1985:• 1986-1987:• 1988-1991:• 1992-1993:• 1994-1995:• 1996:• 1997:• 1998:• 1999:• 2000:• 2001:• 2002:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2009:• 2010:• 2011:• 2012-2013:• 2014:• 2015:• 2016:• 2017:•

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