治 一郎。 伊達治一郎

治一郎 徳重店

治 一郎

経歴 [ ] 金平村(現在の)に生まれる。 出生名は 松本 次一郎。 父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた。 治一郎は後年、60歳のとき「私はのの子として生まれた」と語っている。 父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業((、など)の製造・販売)にも取組んだ。 次吉はそれらの原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売るの仕事をして現金収入を得ていた。 次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。 に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園やの旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の)を。 にへ渡り、大道や偽医者として生計を立てる。 、日本に強制送還されて帰国。 、土建業を創業。 配下にはなどの九州きっての暴れん坊たちが揃っておりの「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。 、筑前叫革団を結成。 同年、初代三百回忌に際して半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。 、九州水平社の委員長となる。 、中央委員会議長に就任。 よりへの闘争を指導。 またが苦しんでいるのはに責任があるとの思想から、、への返上勧告闘争を指導。 のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって4ヶ月の判決を受け、下獄する。 なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。 、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。 から(当選3回)。 当選早々に衆議院で「不当にを得ているの存在が部落民が不当な差別を受ける原因であり部落解放のためには華族制度を廃止すべし」と質問した(当時はの直後であり、はのであった)。 、のによる衆議院議員に反対し、本会議を欠席。 所属する党首の・・・・らとともに、書記長により党員除名処分となる。 、に推薦で当選。 これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが 、・といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本がされた際にも「翼賛会推薦議員」というのが理由の一つになっている。 、翼賛議員であったことから一旦されるが、からの「松本との2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除。 と密接につながり、巨万の富を蓄えた(RAA)の経営陣の一人であった。 しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・の妨害によってへの立候補届出には間に合わず、翌年のに立候補することになる。 その間に委員長に就任する。 、で初当選(当選4回)。 初代に就任。 左派のの領袖として知られた。 資金や運営の面でも貢献は大きく、資金力ではと並んで社会党の双璧とされ、終戦直後の社会党左派の議員会合はよく治一郎の東京事務所を使用しており酒や食事の費用もすべて治一郎が持っていたという(もっとも、本人の当時の日常の食事はやだった)。 なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中がをつくって第一党にしてそこから議長()を出した。 衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来が社会党のになったように、私が部落出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」ととの対談で語っている。 、初代時代、への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した()。 しかし、その後でとなった吉田によって、再度公職追放される(この時は)。 に追放解除。 、初代会長に就任。 、部落解放全国委員会をと改称し、初代執行委員長に就任。 、授与の対象者に選ばれたが拒否。 に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。 人物像 [ ] 「偽医者」問題 [ ] 大連滞在当時、松本が「大日本国一等監」を名乗って偽医者を続けていたことにつき、は『松本治一郎伝』の中で「行く先々で近代的医療から見放された人々から歓迎され」た と記しているが、は「もし、松本治一郎が、日本帝国主義者の中国侵略に批判的であったなら、『大日本国一等軍医監』と自称することはできなかっただろう」「松本は、日本侵略軍に所属する医者であるかのようにふるまい、中国民衆を『治療』し、金銭を得ていた。 あやまった『医療』は、しばしば人命にかかわることがある。 松本はなぜ、中国では、このようなをおこない、日本ではおこなわなかったのだろうか」 と松本の中に中国人に対する差別意識があると批判している。 もっとも、松本自身は「私は、はできないけれども、なら今でも自信がある」と後年自称していたという。 なお日本の刑法上は、松本の行為は違反ならびに(人体に有害なを投与したり外科手術を施したりしていれば)にあたる。 戦争協力問題 [ ] 、福岡県第一区の候補にから推薦されて立候補したときは、の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」「お互は飽くまで米英を打倒し、の世界制覇を覆滅すべく、一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した。 翼賛議員としては、による朝鮮人徴兵法案(「兵役法中改正法律案」)の法制化に賛成()。 、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加 、やらと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった。 「」の開始日()に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、「我等は一切の行動をの本義に発す」「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。 帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが 、敗戦後は突如としてを指弾する側に転じ、「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」 、「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」 と語るようになった。 、のでひらかれたビルマ社会党主催のアジア社会党大会歓迎市民大会で左派の代表者として演説。 このとき「日本は経済的発展をとげるにつれて、自からがによつて侵略者にかわり、あののようなをまき起しの多くの国に多大の犠牲と損害とをあたえたのであります。 勿論、われわれ社会主義者はこの戦争に対して反対したのでありますが」 と述べ、やはり自らの戦争協力の過去を偽った。 この点について、は、「6・3政治集会(共産同政治集会)」(豊島公会堂)での講演で次のように批判している。 部落解放同盟やその同伴者は、蔭でこそこそ悪口をたたきながら、真正面から戦いを挑むことができないわけです。 部落解放同盟が、戦争中に、ごく普通の生活者以上に、如何に積極的に戦争遂行のイデオロギー的尖兵と化したかという問題を何ら反省せず、ほうかぶりして、ぬけぬけと戦後にやって来て、『差別解放運動ひたすら数十年』などという神話をつくりあげ、いまだに『言葉の使い方が悪い』などというつまらぬことを摘発して、もともと何の存在価値もない進歩知識人を脅すことを商売にしているというような閉鎖性を自ら作り出しているのです。 もちろん、解放同盟の心理的規制(ママ)というのは、よく理解できるのですけれども、しかし、最も差別されて、かつ、最も閉鎖的であるが故に、その衝動性が、逆に普通より以上に、権力に迎合していこうとする、いわば、『逆転の契機』というものを持っているという問題に対して、何ら反省なく、自然に戦後にすべりこんでいることが重要な問題だと僕には思われます。 問題は、論理的一元論、ないしは、差別構造自体を内部から固定化し共同化しようとすることのなかに、『理念の逆転』の契機がふくまれていることです。 福岡空港利権問題 [ ] 板付飛行場(今の)の拡張を予想して周辺の土地を買占め、それを空港用地として国に貸し付けた。 地権者の筆頭である松本一族らへの地代総額は年間80億円にも達するという。 福岡空港の土地建物借料は日本全国の空港の中でも突出して高額であり 、この結果、福岡空港は毎年67億円の赤字を出している。 松本が空港建設に先立って周辺用地を買い占めたのは、彼が衆議院議員としての立場を利用し、空港建設計画に関する情報を事前に入手していたためとも指摘されている。 批判 [ ] 松本は生前、第10回部落解放委員会全国委員会会議(8月27-28日)で大阪府連代表の錦織喜一から「松本天皇制を打倒しない限り、部落解放運動の民主化はありえない」と批判されたことがある。 もまた「正直言って私は戦後の松本委員長を見てきて、錦織と同じ気持ちにさせられていた。 それは、たとえば関東地方を支配していた『エタ頭』をほうふつとさせ、今日の民主的な運動の指導者の人物像からはほど遠いものがあった。 また、松本委員長自身も強調していた『人間による人間支配を打破する』ことが、組織内でも委員長自身によって踏み破られていることへの嫌悪感は、錦織喜一ならずとも、大会などでの横暴な場面を見るにつけたれもが抱いたのである」、「松本治一郎委員長は神格化され、水平運動における特等席、すなわち、彼が口汚く悪罵してきた天皇と同じ高御座(たかみくら)に座してきた」 と述べている。 一族 [ ] 生涯を通じてであり、もちろん妻子はいなかった。 博多を落籍して妾宅を構え、腹心の者にも絶対の秘密にしていたが、やがて水平社同人に妾の存在が露見して話題にされ「この問題の段になると主義主張の手前、何となく恥しそうな顔をするとの話があった」 と伝えられる。 甥のを養子として迎え、自身が創業した土建業を継がせている。 英一は治一郎の没後に参議院議員となった。 英一の子・は元。 その弟・は松本組社長。 また、衆議院議員のは被差別部落出身ではなかったが治一郎の姪の長女と結婚。 その息子が衆議院議員のである。 治一郎の妹はと結婚。 の長女は井元の甥と結婚している。 なお、治一郎の姪は松本組支配人の山田本蔵の妻。 本蔵の妹がの妻である。 さらに、松本吉之助(全九州水平社の指導者、福岡県議会議員)の妻の叔父は柴田啓蔵(全九州水平社創立者のひとり)の父である。 また松本吉之助の姉婿は花山清(全九州水平社創立者のひとりで福岡県議会議員)である。 花山清の親類に全九州水平社の高丘松蔵がおり、松蔵の妻は松本治一郎の実妹である。 語録 [ ]• 「不可侵不可被侵(侵さず侵されず)」• 「あるところあり。 「は飲まない。 は吸わない。 をしない。 帯しないし、。 をしない」(この五戒を若い頃は別として生涯堅持したという)• 若い頃は酒豪かつヘビースモーカーであったが、三十代半ばの頃の拘留を機に「獄中では人間の欲望は敵である、社会運動をやる者は万年被告の心構えが必要」と禁酒禁煙に踏み切った。 「権力と闘ってきた私を、なんと考えておるのか。 天皇から叙勲式とか親授式とか、そんなことができるなら、この松本の闘争は存在しなかったはずだ。 勲章を欲しがり、権威をふりまわそうとする。 この考えが部落差別を残すことにつながっている」(勲一等拒否の弁)• 「私の闘ってきた相手は君ではない。 君の背後にあるものだ。 、により制作された映画「」(監督作品)では、が松本を演じている。 銅像 [ ]• 福岡県部落解放センター(福岡市) 脚注 [ ]• ネットアイビーニュース 2012年12月20日. 2015年5月24日閲覧。 の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。 福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。 「水平記」下巻、P29、• 『正論』号「折節の記」• 「松本治一郎伝」P276~278• 『松本治一郎伝』p. 金、pp. 451-452• 「松本治一郎」P48• 352-353• 金、pp. 637• 『特高月報』分、pp. 36-39• 金、pp. 355-359• の発言。 松本治一郎「荊冠旗は血に染む 水平社運動廿五年」、『政界ジープ』ジープ社、1947年、p. の発言。 松本治一郎「衆議院より参議院へ」、松本治一郎・『部落解放への三十年』、1948年、p. 204、p206• 松本治一郎「全アジア水平運動のために からへ」(一)、『部落』第40号、、pp. 9-10• 『』2011年9月号「折節の記」• 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、217頁。 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 部落解放新書1・松本治一郎対談集(解放出版社)• 「松本治一郎」P49• 「松本治一郎伝」P82• 「松本治一郎」P252• 「松本治一郎」P200 参考文献 [ ]• 松本治一郎「部落解放への三十年」()• 「世界伝記大事典5 日本・朝鮮・中国編」()• 中央本部編「松本治一郎伝」()• ・松本治一郎プロジェクト編「松本治一郎」()• 「水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」()• 編「伝記松本治一郎」() 関連項目 [ ]• - 松本の議員秘書から政界入りした。 - 松本治一郎から見ると兄貴分にあたる存在。 松本は、松永から仕事を紹介されて福岡県内の鉄道関連工事を進め、巨億の富を蓄えた。 外部リンク [ ]•

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治 一郎

経歴 [ ] 金平村(現在の)に生まれる。 出生名は 松本 次一郎。 父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた。 治一郎は後年、60歳のとき「私はのの子として生まれた」と語っている。 父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業((、など)の製造・販売)にも取組んだ。 次吉はそれらの原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売るの仕事をして現金収入を得ていた。 次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。 に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園やの旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の)を。 にへ渡り、大道や偽医者として生計を立てる。 、日本に強制送還されて帰国。 、土建業を創業。 配下にはなどの九州きっての暴れん坊たちが揃っておりの「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。 、筑前叫革団を結成。 同年、初代三百回忌に際して半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。 、九州水平社の委員長となる。 、中央委員会議長に就任。 よりへの闘争を指導。 またが苦しんでいるのはに責任があるとの思想から、、への返上勧告闘争を指導。 のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって4ヶ月の判決を受け、下獄する。 なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。 、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。 から(当選3回)。 当選早々に衆議院で「不当にを得ているの存在が部落民が不当な差別を受ける原因であり部落解放のためには華族制度を廃止すべし」と質問した(当時はの直後であり、はのであった)。 、のによる衆議院議員に反対し、本会議を欠席。 所属する党首の・・・・らとともに、書記長により党員除名処分となる。 、に推薦で当選。 これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが 、・といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本がされた際にも「翼賛会推薦議員」というのが理由の一つになっている。 、翼賛議員であったことから一旦されるが、からの「松本との2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除。 と密接につながり、巨万の富を蓄えた(RAA)の経営陣の一人であった。 しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・の妨害によってへの立候補届出には間に合わず、翌年のに立候補することになる。 その間に委員長に就任する。 、で初当選(当選4回)。 初代に就任。 左派のの領袖として知られた。 資金や運営の面でも貢献は大きく、資金力ではと並んで社会党の双璧とされ、終戦直後の社会党左派の議員会合はよく治一郎の東京事務所を使用しており酒や食事の費用もすべて治一郎が持っていたという(もっとも、本人の当時の日常の食事はやだった)。 なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中がをつくって第一党にしてそこから議長()を出した。 衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来が社会党のになったように、私が部落出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」ととの対談で語っている。 、初代時代、への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した()。 しかし、その後でとなった吉田によって、再度公職追放される(この時は)。 に追放解除。 、初代会長に就任。 、部落解放全国委員会をと改称し、初代執行委員長に就任。 、授与の対象者に選ばれたが拒否。 に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。 人物像 [ ] 「偽医者」問題 [ ] 大連滞在当時、松本が「大日本国一等監」を名乗って偽医者を続けていたことにつき、は『松本治一郎伝』の中で「行く先々で近代的医療から見放された人々から歓迎され」た と記しているが、は「もし、松本治一郎が、日本帝国主義者の中国侵略に批判的であったなら、『大日本国一等軍医監』と自称することはできなかっただろう」「松本は、日本侵略軍に所属する医者であるかのようにふるまい、中国民衆を『治療』し、金銭を得ていた。 あやまった『医療』は、しばしば人命にかかわることがある。 松本はなぜ、中国では、このようなをおこない、日本ではおこなわなかったのだろうか」 と松本の中に中国人に対する差別意識があると批判している。 もっとも、松本自身は「私は、はできないけれども、なら今でも自信がある」と後年自称していたという。 なお日本の刑法上は、松本の行為は違反ならびに(人体に有害なを投与したり外科手術を施したりしていれば)にあたる。 戦争協力問題 [ ] 、福岡県第一区の候補にから推薦されて立候補したときは、の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」「お互は飽くまで米英を打倒し、の世界制覇を覆滅すべく、一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した。 翼賛議員としては、による朝鮮人徴兵法案(「兵役法中改正法律案」)の法制化に賛成()。 、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加 、やらと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった。 「」の開始日()に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、「我等は一切の行動をの本義に発す」「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。 帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが 、敗戦後は突如としてを指弾する側に転じ、「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」 、「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」 と語るようになった。 、のでひらかれたビルマ社会党主催のアジア社会党大会歓迎市民大会で左派の代表者として演説。 このとき「日本は経済的発展をとげるにつれて、自からがによつて侵略者にかわり、あののようなをまき起しの多くの国に多大の犠牲と損害とをあたえたのであります。 勿論、われわれ社会主義者はこの戦争に対して反対したのでありますが」 と述べ、やはり自らの戦争協力の過去を偽った。 この点について、は、「6・3政治集会(共産同政治集会)」(豊島公会堂)での講演で次のように批判している。 部落解放同盟やその同伴者は、蔭でこそこそ悪口をたたきながら、真正面から戦いを挑むことができないわけです。 部落解放同盟が、戦争中に、ごく普通の生活者以上に、如何に積極的に戦争遂行のイデオロギー的尖兵と化したかという問題を何ら反省せず、ほうかぶりして、ぬけぬけと戦後にやって来て、『差別解放運動ひたすら数十年』などという神話をつくりあげ、いまだに『言葉の使い方が悪い』などというつまらぬことを摘発して、もともと何の存在価値もない進歩知識人を脅すことを商売にしているというような閉鎖性を自ら作り出しているのです。 もちろん、解放同盟の心理的規制(ママ)というのは、よく理解できるのですけれども、しかし、最も差別されて、かつ、最も閉鎖的であるが故に、その衝動性が、逆に普通より以上に、権力に迎合していこうとする、いわば、『逆転の契機』というものを持っているという問題に対して、何ら反省なく、自然に戦後にすべりこんでいることが重要な問題だと僕には思われます。 問題は、論理的一元論、ないしは、差別構造自体を内部から固定化し共同化しようとすることのなかに、『理念の逆転』の契機がふくまれていることです。 福岡空港利権問題 [ ] 板付飛行場(今の)の拡張を予想して周辺の土地を買占め、それを空港用地として国に貸し付けた。 地権者の筆頭である松本一族らへの地代総額は年間80億円にも達するという。 福岡空港の土地建物借料は日本全国の空港の中でも突出して高額であり 、この結果、福岡空港は毎年67億円の赤字を出している。 松本が空港建設に先立って周辺用地を買い占めたのは、彼が衆議院議員としての立場を利用し、空港建設計画に関する情報を事前に入手していたためとも指摘されている。 批判 [ ] 松本は生前、第10回部落解放委員会全国委員会会議(8月27-28日)で大阪府連代表の錦織喜一から「松本天皇制を打倒しない限り、部落解放運動の民主化はありえない」と批判されたことがある。 もまた「正直言って私は戦後の松本委員長を見てきて、錦織と同じ気持ちにさせられていた。 それは、たとえば関東地方を支配していた『エタ頭』をほうふつとさせ、今日の民主的な運動の指導者の人物像からはほど遠いものがあった。 また、松本委員長自身も強調していた『人間による人間支配を打破する』ことが、組織内でも委員長自身によって踏み破られていることへの嫌悪感は、錦織喜一ならずとも、大会などでの横暴な場面を見るにつけたれもが抱いたのである」、「松本治一郎委員長は神格化され、水平運動における特等席、すなわち、彼が口汚く悪罵してきた天皇と同じ高御座(たかみくら)に座してきた」 と述べている。 一族 [ ] 生涯を通じてであり、もちろん妻子はいなかった。 博多を落籍して妾宅を構え、腹心の者にも絶対の秘密にしていたが、やがて水平社同人に妾の存在が露見して話題にされ「この問題の段になると主義主張の手前、何となく恥しそうな顔をするとの話があった」 と伝えられる。 甥のを養子として迎え、自身が創業した土建業を継がせている。 英一は治一郎の没後に参議院議員となった。 英一の子・は元。 その弟・は松本組社長。 また、衆議院議員のは被差別部落出身ではなかったが治一郎の姪の長女と結婚。 その息子が衆議院議員のである。 治一郎の妹はと結婚。 の長女は井元の甥と結婚している。 なお、治一郎の姪は松本組支配人の山田本蔵の妻。 本蔵の妹がの妻である。 さらに、松本吉之助(全九州水平社の指導者、福岡県議会議員)の妻の叔父は柴田啓蔵(全九州水平社創立者のひとり)の父である。 また松本吉之助の姉婿は花山清(全九州水平社創立者のひとりで福岡県議会議員)である。 花山清の親類に全九州水平社の高丘松蔵がおり、松蔵の妻は松本治一郎の実妹である。 語録 [ ]• 「不可侵不可被侵(侵さず侵されず)」• 「あるところあり。 「は飲まない。 は吸わない。 をしない。 帯しないし、。 をしない」(この五戒を若い頃は別として生涯堅持したという)• 若い頃は酒豪かつヘビースモーカーであったが、三十代半ばの頃の拘留を機に「獄中では人間の欲望は敵である、社会運動をやる者は万年被告の心構えが必要」と禁酒禁煙に踏み切った。 「権力と闘ってきた私を、なんと考えておるのか。 天皇から叙勲式とか親授式とか、そんなことができるなら、この松本の闘争は存在しなかったはずだ。 勲章を欲しがり、権威をふりまわそうとする。 この考えが部落差別を残すことにつながっている」(勲一等拒否の弁)• 「私の闘ってきた相手は君ではない。 君の背後にあるものだ。 、により制作された映画「」(監督作品)では、が松本を演じている。 銅像 [ ]• 福岡県部落解放センター(福岡市) 脚注 [ ]• ネットアイビーニュース 2012年12月20日. 2015年5月24日閲覧。 の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。 福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。 「水平記」下巻、P29、• 『正論』号「折節の記」• 「松本治一郎伝」P276~278• 『松本治一郎伝』p. 金、pp. 451-452• 「松本治一郎」P48• 352-353• 金、pp. 637• 『特高月報』分、pp. 36-39• 金、pp. 355-359• の発言。 松本治一郎「荊冠旗は血に染む 水平社運動廿五年」、『政界ジープ』ジープ社、1947年、p. の発言。 松本治一郎「衆議院より参議院へ」、松本治一郎・『部落解放への三十年』、1948年、p. 204、p206• 松本治一郎「全アジア水平運動のために からへ」(一)、『部落』第40号、、pp. 9-10• 『』2011年9月号「折節の記」• 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、217頁。 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 部落解放新書1・松本治一郎対談集(解放出版社)• 「松本治一郎」P49• 「松本治一郎伝」P82• 「松本治一郎」P252• 「松本治一郎」P200 参考文献 [ ]• 松本治一郎「部落解放への三十年」()• 「世界伝記大事典5 日本・朝鮮・中国編」()• 中央本部編「松本治一郎伝」()• ・松本治一郎プロジェクト編「松本治一郎」()• 「水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」()• 編「伝記松本治一郎」() 関連項目 [ ]• - 松本の議員秘書から政界入りした。 - 松本治一郎から見ると兄貴分にあたる存在。 松本は、松永から仕事を紹介されて福岡県内の鉄道関連工事を進め、巨億の富を蓄えた。 外部リンク [ ]•

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治 一郎

経歴 [ ] 金平村(現在の)に生まれる。 出生名は 松本 次一郎。 父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた。 治一郎は後年、60歳のとき「私はのの子として生まれた」と語っている。 父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業((、など)の製造・販売)にも取組んだ。 次吉はそれらの原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売るの仕事をして現金収入を得ていた。 次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。 に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園やの旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の)を。 にへ渡り、大道や偽医者として生計を立てる。 、日本に強制送還されて帰国。 、土建業を創業。 配下にはなどの九州きっての暴れん坊たちが揃っておりの「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。 、筑前叫革団を結成。 同年、初代三百回忌に際して半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。 、九州水平社の委員長となる。 、中央委員会議長に就任。 よりへの闘争を指導。 またが苦しんでいるのはに責任があるとの思想から、、への返上勧告闘争を指導。 のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって4ヶ月の判決を受け、下獄する。 なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。 、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。 から(当選3回)。 当選早々に衆議院で「不当にを得ているの存在が部落民が不当な差別を受ける原因であり部落解放のためには華族制度を廃止すべし」と質問した(当時はの直後であり、はのであった)。 、のによる衆議院議員に反対し、本会議を欠席。 所属する党首の・・・・らとともに、書記長により党員除名処分となる。 、に推薦で当選。 これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが 、・といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本がされた際にも「翼賛会推薦議員」というのが理由の一つになっている。 、翼賛議員であったことから一旦されるが、からの「松本との2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除。 と密接につながり、巨万の富を蓄えた(RAA)の経営陣の一人であった。 しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・の妨害によってへの立候補届出には間に合わず、翌年のに立候補することになる。 その間に委員長に就任する。 、で初当選(当選4回)。 初代に就任。 左派のの領袖として知られた。 資金や運営の面でも貢献は大きく、資金力ではと並んで社会党の双璧とされ、終戦直後の社会党左派の議員会合はよく治一郎の東京事務所を使用しており酒や食事の費用もすべて治一郎が持っていたという(もっとも、本人の当時の日常の食事はやだった)。 なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中がをつくって第一党にしてそこから議長()を出した。 衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来が社会党のになったように、私が部落出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」ととの対談で語っている。 、初代時代、への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した()。 しかし、その後でとなった吉田によって、再度公職追放される(この時は)。 に追放解除。 、初代会長に就任。 、部落解放全国委員会をと改称し、初代執行委員長に就任。 、授与の対象者に選ばれたが拒否。 に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。 人物像 [ ] 「偽医者」問題 [ ] 大連滞在当時、松本が「大日本国一等監」を名乗って偽医者を続けていたことにつき、は『松本治一郎伝』の中で「行く先々で近代的医療から見放された人々から歓迎され」た と記しているが、は「もし、松本治一郎が、日本帝国主義者の中国侵略に批判的であったなら、『大日本国一等軍医監』と自称することはできなかっただろう」「松本は、日本侵略軍に所属する医者であるかのようにふるまい、中国民衆を『治療』し、金銭を得ていた。 あやまった『医療』は、しばしば人命にかかわることがある。 松本はなぜ、中国では、このようなをおこない、日本ではおこなわなかったのだろうか」 と松本の中に中国人に対する差別意識があると批判している。 もっとも、松本自身は「私は、はできないけれども、なら今でも自信がある」と後年自称していたという。 なお日本の刑法上は、松本の行為は違反ならびに(人体に有害なを投与したり外科手術を施したりしていれば)にあたる。 戦争協力問題 [ ] 、福岡県第一区の候補にから推薦されて立候補したときは、の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」「お互は飽くまで米英を打倒し、の世界制覇を覆滅すべく、一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した。 翼賛議員としては、による朝鮮人徴兵法案(「兵役法中改正法律案」)の法制化に賛成()。 、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加 、やらと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった。 「」の開始日()に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、「我等は一切の行動をの本義に発す」「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。 帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが 、敗戦後は突如としてを指弾する側に転じ、「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」 、「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」 と語るようになった。 、のでひらかれたビルマ社会党主催のアジア社会党大会歓迎市民大会で左派の代表者として演説。 このとき「日本は経済的発展をとげるにつれて、自からがによつて侵略者にかわり、あののようなをまき起しの多くの国に多大の犠牲と損害とをあたえたのであります。 勿論、われわれ社会主義者はこの戦争に対して反対したのでありますが」 と述べ、やはり自らの戦争協力の過去を偽った。 この点について、は、「6・3政治集会(共産同政治集会)」(豊島公会堂)での講演で次のように批判している。 部落解放同盟やその同伴者は、蔭でこそこそ悪口をたたきながら、真正面から戦いを挑むことができないわけです。 部落解放同盟が、戦争中に、ごく普通の生活者以上に、如何に積極的に戦争遂行のイデオロギー的尖兵と化したかという問題を何ら反省せず、ほうかぶりして、ぬけぬけと戦後にやって来て、『差別解放運動ひたすら数十年』などという神話をつくりあげ、いまだに『言葉の使い方が悪い』などというつまらぬことを摘発して、もともと何の存在価値もない進歩知識人を脅すことを商売にしているというような閉鎖性を自ら作り出しているのです。 もちろん、解放同盟の心理的規制(ママ)というのは、よく理解できるのですけれども、しかし、最も差別されて、かつ、最も閉鎖的であるが故に、その衝動性が、逆に普通より以上に、権力に迎合していこうとする、いわば、『逆転の契機』というものを持っているという問題に対して、何ら反省なく、自然に戦後にすべりこんでいることが重要な問題だと僕には思われます。 問題は、論理的一元論、ないしは、差別構造自体を内部から固定化し共同化しようとすることのなかに、『理念の逆転』の契機がふくまれていることです。 福岡空港利権問題 [ ] 板付飛行場(今の)の拡張を予想して周辺の土地を買占め、それを空港用地として国に貸し付けた。 地権者の筆頭である松本一族らへの地代総額は年間80億円にも達するという。 福岡空港の土地建物借料は日本全国の空港の中でも突出して高額であり 、この結果、福岡空港は毎年67億円の赤字を出している。 松本が空港建設に先立って周辺用地を買い占めたのは、彼が衆議院議員としての立場を利用し、空港建設計画に関する情報を事前に入手していたためとも指摘されている。 批判 [ ] 松本は生前、第10回部落解放委員会全国委員会会議(8月27-28日)で大阪府連代表の錦織喜一から「松本天皇制を打倒しない限り、部落解放運動の民主化はありえない」と批判されたことがある。 もまた「正直言って私は戦後の松本委員長を見てきて、錦織と同じ気持ちにさせられていた。 それは、たとえば関東地方を支配していた『エタ頭』をほうふつとさせ、今日の民主的な運動の指導者の人物像からはほど遠いものがあった。 また、松本委員長自身も強調していた『人間による人間支配を打破する』ことが、組織内でも委員長自身によって踏み破られていることへの嫌悪感は、錦織喜一ならずとも、大会などでの横暴な場面を見るにつけたれもが抱いたのである」、「松本治一郎委員長は神格化され、水平運動における特等席、すなわち、彼が口汚く悪罵してきた天皇と同じ高御座(たかみくら)に座してきた」 と述べている。 一族 [ ] 生涯を通じてであり、もちろん妻子はいなかった。 博多を落籍して妾宅を構え、腹心の者にも絶対の秘密にしていたが、やがて水平社同人に妾の存在が露見して話題にされ「この問題の段になると主義主張の手前、何となく恥しそうな顔をするとの話があった」 と伝えられる。 甥のを養子として迎え、自身が創業した土建業を継がせている。 英一は治一郎の没後に参議院議員となった。 英一の子・は元。 その弟・は松本組社長。 また、衆議院議員のは被差別部落出身ではなかったが治一郎の姪の長女と結婚。 その息子が衆議院議員のである。 治一郎の妹はと結婚。 の長女は井元の甥と結婚している。 なお、治一郎の姪は松本組支配人の山田本蔵の妻。 本蔵の妹がの妻である。 さらに、松本吉之助(全九州水平社の指導者、福岡県議会議員)の妻の叔父は柴田啓蔵(全九州水平社創立者のひとり)の父である。 また松本吉之助の姉婿は花山清(全九州水平社創立者のひとりで福岡県議会議員)である。 花山清の親類に全九州水平社の高丘松蔵がおり、松蔵の妻は松本治一郎の実妹である。 語録 [ ]• 「不可侵不可被侵(侵さず侵されず)」• 「あるところあり。 「は飲まない。 は吸わない。 をしない。 帯しないし、。 をしない」(この五戒を若い頃は別として生涯堅持したという)• 若い頃は酒豪かつヘビースモーカーであったが、三十代半ばの頃の拘留を機に「獄中では人間の欲望は敵である、社会運動をやる者は万年被告の心構えが必要」と禁酒禁煙に踏み切った。 「権力と闘ってきた私を、なんと考えておるのか。 天皇から叙勲式とか親授式とか、そんなことができるなら、この松本の闘争は存在しなかったはずだ。 勲章を欲しがり、権威をふりまわそうとする。 この考えが部落差別を残すことにつながっている」(勲一等拒否の弁)• 「私の闘ってきた相手は君ではない。 君の背後にあるものだ。 、により制作された映画「」(監督作品)では、が松本を演じている。 銅像 [ ]• 福岡県部落解放センター(福岡市) 脚注 [ ]• ネットアイビーニュース 2012年12月20日. 2015年5月24日閲覧。 の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。 福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。 「水平記」下巻、P29、• 『正論』号「折節の記」• 「松本治一郎伝」P276~278• 『松本治一郎伝』p. 金、pp. 451-452• 「松本治一郎」P48• 352-353• 金、pp. 637• 『特高月報』分、pp. 36-39• 金、pp. 355-359• の発言。 松本治一郎「荊冠旗は血に染む 水平社運動廿五年」、『政界ジープ』ジープ社、1947年、p. の発言。 松本治一郎「衆議院より参議院へ」、松本治一郎・『部落解放への三十年』、1948年、p. 204、p206• 松本治一郎「全アジア水平運動のために からへ」(一)、『部落』第40号、、pp. 9-10• 『』2011年9月号「折節の記」• 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、217頁。 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁• 部落解放新書1・松本治一郎対談集(解放出版社)• 「松本治一郎」P49• 「松本治一郎伝」P82• 「松本治一郎」P252• 「松本治一郎」P200 参考文献 [ ]• 松本治一郎「部落解放への三十年」()• 「世界伝記大事典5 日本・朝鮮・中国編」()• 中央本部編「松本治一郎伝」()• ・松本治一郎プロジェクト編「松本治一郎」()• 「水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」()• 編「伝記松本治一郎」() 関連項目 [ ]• - 松本の議員秘書から政界入りした。 - 松本治一郎から見ると兄貴分にあたる存在。 松本は、松永から仕事を紹介されて福岡県内の鉄道関連工事を進め、巨億の富を蓄えた。 外部リンク [ ]•

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