バッハ 平均 律 クラヴィーア 曲 集。 「平均律クラヴィーア曲集」の難易度について考えてみる(J.S.バッハ)

この「平均律」を聴きたい3選――「平均律クラヴィーア」の奥深い魅力に迫る|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」

バッハ 平均 律 クラヴィーア 曲 集

バッハの平均律曲集の難易度を一覧表にした。 プレリュードとフーガの個別の難易度が分かるのはヘンレ社のみ。 ヘンレ社の 9段階難易度(1〜3:easy、4〜6:medium、7〜9:difficult)については文末に記載した。 「28段階の難易度」についてはを参照されたい。 なお、「note」欄は私のメモ。 ABCDのみ表記は候補曲。 * 凡例 No. バッハ 平均律 難易度・候補一覧】 No. 4 D:2014. 各段階の曲の例としてあげられているものが下記。 詳しくは を参照されたい。 バッハ、アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア練習帳、第4番と第5番• バッハ、平均律クラヴィーア曲集第1巻、第1番前奏曲ハ長調• ベートーヴェン、ピアノソナタ op. 49-1と49-2• グリーグ、抒情小曲集 op. 12、第4番• シューマン、幻想小曲集 op. 12、第1曲• ショパン、夜想曲 op. 27-1と27-2• ベートーヴェン、ピアノソナタ op. 10-3• ベートーヴェン、ピアノソナタ op. 81a• シューマン、トッカータ op. 7 【関連記事】• 171• 295• 338• 138• 129•

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「平均律クラヴィーア曲集」の難易度について考えてみる(J.S.バッハ)

バッハ 平均 律 クラヴィーア 曲 集

J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第一巻 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 BWV 846-869 《平均律クラヴィーア曲集第1巻》(BWV 846-869)は、高い芸術性を掲げた画期的な教育用の作品であった。 無数にあるバロックのレパートリーの中で、この曲集ほど広く親しまれ、演奏され、研究されてきたものは存在しない。 それを反映するかのように、この曲集に纏わる有名な逸話もたくさんあるのだが、その中でもハンス・フォン・ビューローの『ピアニストの旧約聖書』と、R. シューマンの『ピアニストの日々の糧』は、今日でも音楽教育の場で耳にする言葉である。 生前には出版されなかったが、弟子が作った筆写譜により、この曲集はバッハの名声と共にヨーロッパ各地へ着実に広まっていった。 それらはモーツァルトやベートーヴェンまで届き、西洋音楽の流れに大きく貢献した。 出版はバッハの死後51年目にして初めて実現したが、それはバッハの息子や弟子達の情熱的な支持と努力の賜物であった。 目次 表題とその歴史的背景 バッハ自身の手による浄書譜(ベルリン国立図書館所蔵)には、次のような表題がついている。 平均律クラヴィーア曲集、 あるいは、 すべての全音と半音を用い、長三度、すなわち『ド・レ・ミ』の関係、それに短三度、すなわち『レ・ミ・ファ』の関係を網羅するプレリュードとフーガ集。 学習欲に燃える若い音楽生の有益な手引きとして、また既に、これらの学習を終えた人々にとっては、格別な楽しみとなるために、現アンハルト・ケーテン侯宮廷楽長兼同宮廷楽団監督ヨハン・セバスチャン・バッハがこれを起草し、完成す。 1722年。 表題に《平均律》という難解な語彙が使われている背景には、24全ての調を聴くに耐えうるように調律された鍵盤楽器が、当時それ程普及していなかったことを示唆する。 18世紀後半から20世紀中頃までは、この語は今日普及している12等分平均律を指している、と一般的に考えられていた。 この言葉の歴史的意義を探っていくと、A. ヴェルクマイスターの提唱する一連の音律論革命の歴史に辿り着く。 それと同時に、もうひとつの歴史の流れである調組織の確立という史実があった。 バロック初期から、多種類あった教会旋法がほぼ二種類に限られてきており、転調が自由になり、使用される長調と短調の種類が増えつつあった。 1720年代にバッハが理論上可能な24の全ての調を使ってみようと考えた背景には、そういった歴史の流れがあった。 その意味でこの曲集は、画期的で、また唱道的でさえあった、と後世は考えたのである。 この解釈に疑問を投げかけたのはJ. バーバーだった。 1947年に彼は、この曲集は、《程よく宥めすかされたピアノ》と解釈すべく提唱した。 その後、この《平均律》は数ある古典的調律法のひとつを指すのだろうという意見が主流になった。 その調律法は、個々の和音に純度の差を許すため、全ての調に独特な性格を植え付けることになったのである。 この議論は1985年にR. ラッシュの多角的な研究によって再び覆されることになる。 バッハの《平均律》が12等分平均律であったという彼の主張は、今の我々には無謀に聞こえるかも知れない。 しかし、息子や弟子によって伝えられるバッハの調律についての技術や見解、それに彼自身が頻繁に移調を試みている事実などを照らし合わせて考察してみると、納得ができないこともない。 《クラヴィーア》は鍵盤楽器を意味するが、そういう名の特定の楽器は存在しない。 20世紀初頭までは、それは一般的にクラヴィコードだと解釈されていた。 確かに18世紀末期にクラヴィーアがクラヴィコードを指していたという史実がある。 しかし、バッハの時代には、鍵盤楽器全体がクラヴィーアと呼ばれていたことが明らかになってきた。 バッハ自身はどうだったのかというと、彼自身はオルガンと、他の弦を用いた小さな鍵盤楽器とを区別して指定しており、後者をひっくるめてクラヴィーアと呼んでいた。 そうすると、大まかに分類して、クラヴィコード、フォルテピアノ、チェンバロ、がこの部類に属することになる。 ここに明らかなように、バッハは楽器を音の性質によって区別していたのである。 作曲にあたり、演奏会場、演奏目的、また演奏家と聴衆の関係を考慮に入れる必要があったからである。 このことはまた、曲の様式や性格を論じる上で大変重要になってくる。 それでは、バッハはクラヴィーアという楽器群の中のいったいどの楽器を好んで使ったのだろうか。 この曲集全体をみてみると、第4番や20番のフーガのように、オルガンが一番適しているものもあるが、後に述べるH. ゲルバーの回顧録にあるように、バッハはその全曲を家にある「すばらしい」楽器で演奏したのである。 曲集全体を一つの楽器で演奏するとなると、幾つかのストップを持ったチェンバロを選ぶのが一番妥当であろう。 また、曲集の使用している音域、つまりCからc'''という4オクターヴにまつわる議論であるが、バッハは自分が所有していたクラヴィコードを想定して作曲したという従来の説は、少し視野が狭いかと思われる。 バッハは曲集の幅広い普及を考慮し、当時一般的であった楽器に焦点をあわせた、と見る方が論理的でかつ説得力がある。 成立過程と改訂の歴史 この自筆浄書譜の表題に記された『1722年』はバッハにとって生涯の一番の大きな区切りを意味した年でもあった。 5年前にケーテンへ晴れて栄転したバッハだったが、レオポルト侯の新しい妃は音楽嫌いで、居心地が悪くなってきたようだ。 この年末に心はもうライプツィヒへ行っていたのである。 その合間にこの曲集が完成された。 それと並行して、第二の妻となったばかりのアンナ・マグダレーナのために《クラヴィーア小曲集》を書いたり、翌年には《インヴェンションとシンフォニア》の浄書譜を完成させる等、体系的で優れた教育用のクラヴィーア曲を仕上げるのに力を注いだ。 現存する筆写譜の研究を通して、バッハがこの曲集を起草するにあたって、いかに腐心したかが明るみに出てきた。 この分野ではA. デュルとR. ジョーンズのごく最近の資料研究が最も優れている。 この曲集を完成させるにあたって、バッハには、以前に作曲した作品を寄せ集め、少しずつ改訂を重ね、より完全な形へ作り上げていく、という目標が根底にあったようだ。 曲の構成全体に光を照らしてみると、《平均律クラヴィーア曲集》の要である体系の基礎、つまり一対のプレリュードとフーガが24の全て異なる調によって書かれ、ハ音を主音として開始し、長調と短調の順を厳守しながら半音階で上行を繰り返しロ短調で終結する、というアイディアは、実は修正を重ねながら徐々に定着していった、という事実が浮かび上がってくる。 その上、今日では現存しないバッハの初期稿から派生したと考えられる筆写譜には、数々の異形が初期の形として確認され、それは曲集の構造の変遷の歴史と、また同時期に計画されていた他の曲集の構造と年代学的に一致を見ることができる。 それを順に追っていくと、J. フィッシャーのアイディア(後述を参照)に遡ることができる。 更に主題の類似性も観察できることから、彼の曲集がインスピレーションとなったことは疑う余地があるまい。 この曲集の成立過程は、3つの過程に分類し再現することができる。 まず第1過程では、12曲のプレリュード(第1? 8番、10番、12? 13番、15番)が最終版より短いが、これらが曲集の前半に集中しているのがとても興味深い。 またフーガも《フゲッタ》(小フーガ)と題されている。 しかし曲自体は、第15番と22番(ともに1小節短い)を除いては、細かい違いしか認められない。 第2及び第3過程は、1720年にバッハが当時9歳の長男のために書いた《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集》に垣間見ることができる。 そこには、11曲のプレリュードのみが初期版として含まれているが、上行する全音階の体系でハ長調からヘ長調まで(C, c, d, D, e, E, F)が第2過程、そしてそのシリーズに半音で穴埋めをする形(Cis, cis, es, f)が第3過程である。 これらを曲としての成熟度から観ると、第2過程は、第1過程に少し改訂を加えた形になっており、第3過程は最終版へ近い。 つまり、ここにも年代的ずれが観察されるのである。 バッハの弟子(研究者の間でAnon. 5として知られている)が1722年末から翌年にかけて作成した筆写譜にも、この第3過程が反映している。 この筆写譜は、後にバッハの自筆浄書譜版へとアップデートされることになるが、もうこの時期にプレリュード第1番から15番までは、短いエチュードから立派な作品として、フーガに引けを取らないまでに成長していた。 また、演奏技術と楽曲様式の観点からもう一度じっくり考察してみると、第2過程にみられた7曲には、グループとしてのアイデンティティーが確かに認められる。 また、この初期稿に見られる改訂全体を眺めてみると、フーガがそれほど手をつけられていないのに対し、プレリュードが膨大に拡張されているのが分かる。 第2過程にフーガが見られないことから、この曲集においてプレリュードとフーガというペアは、ある程度別々に作曲された可能性が高いと考えられる。 この曲集を完成させるにあたり、曲の途中の転調によってでさえ滅多に見られない調を扱わねばならないというのが、一つの厄介な問題であったことは容易に察することができよう。 実際バッハが、これまで4つ以上のシャープやフラットを持つ調号を用いてクラヴィーア曲を書いたという事実はない。 それに加え、バッハは初期稿に於いて、旋法式のシャープやフラットが1つ少ない調号を頻繁に使っており、調号の記譜にも年代を示唆する推移が確認できる。 また、曲の性格を決定づける拍子記号も改訂されたようだ。 プレリュード第8番の2分の3拍子は4分の3から、また13番の16分の12拍子は8分の12から変更された可能性が高い。 さて、そうして1722年までに初期稿が完成し、最終版として自筆浄書譜が確固たる信念に基づいて記されることになる。 その後20年以上も大切に使用され、小さな改訂が継続的に加えられていくことになったが、その堂々とした筆致には、バッハが如何に精魂を傾けて書き上げたかが容易に読み取れる。 巻末にはバッハの浄書譜の最後によく見られる『神のみに栄光あれ』(S. G)というサインがしてある。 バッハがこの時点で出版を考慮した形跡はない。 弟子が学習のために必要な場合には、バッハは初期稿に手を加えては貸し、この浄書譜は約20年もの間、弟子には使わせなかった。 そういう知られざる史実が弟子の筆写譜に証拠となって存在する。 バッハの改訂はそれ自体大変興味深い。 1977年のW. デーンハートの研究により、それは4つの段階に分類できる。 第1段階は、自筆浄書譜が最初に書かれた時で、最少の修正と最終フーガの興味深い訂正を含む。 第2段階では、プレリュード第3番とフーガ第6番が大きく修正されている。 また1733年にアンナ・マグダレーナが書き始めた写譜がこの段階と一致する。 自筆浄書譜の最後に記入された『1732』という年号はこの段階の終わりを意味すると考えられる。 第3段階では、フーガ第1番が大幅に改訂された他、フーガ第9番と15番にも小規模の改訂が行われた。 この段階は、バッハがドレスデンのザクセン選帝侯の宮廷作曲家の称号をもらった後の1737年頃と推定されている。 第4段階では、広い範囲にわたり、大掛かりな改訂が行われた。 これは、第2巻が一応の完成をみた1742年頃のこととみられる。 大規模な鍵盤楽器用の曲集を次々と作曲し、改訂したこの時期に、全2巻の《平均律》を仕上げてしまおう、というバッハの気迫が背後に感じられる。 概してプレリュードの改訂は、テクスチャーを装飾することにより、その性格を明確にしたり、新しく作曲した部分を挿入する等、構造的な美と安定感を追求している。 それに対し、フーガの場合は、第1番のように、主題のリズムの形が変えられていたり、各声部の動きが、教科書的な書法からの脱出を試みたりしている場合もある。 これらの場合、主題やフーガという形式の持つ哲学的な思考過程が影響しているのであるが、演奏時により効果的に表現されるよう努めるべきである。 曲集の歴史的位置 バッハの表題に見られる『24全ての調』の説明は不自然でぎこちない。 この概念を簡潔かつ正確に表現する語彙をみつけることができなかったのだろうが、似たような実験的な試みは、実は既に20年も前からあったのである。 トライバーが1702年に出版した《一風変わったインヴェンション:全ての音、和音、拍子記号を用いた一つのメロディーによるアリア》と、翌々年に出た《通奏低音に正確なオルガニスト》、また、J. マテゾンが1719年に出版した全ての調を用いた48の範例による《オルガニスト範典》という教本等である。 バッハと同い年で直接顔見知りだったと推測されるG. キルヒホフも《ABCムジカル:全ての調によるプレリュードとフーガ集》(現存せず)という作品を書いた。 しかし、何といっても、バッハに直接影響を与えたのは、1702年に出版されたJ. フィッシャーの20のプレリュードとフーガ集《アリアドネ・ムジカ》である。 バッハがフィッシャーの作品を研究していたことは、よく知られており、フーガの主題や曲集構築の面からも容易に推測できるように、バッハが《アリアドネ・ムジカ》をモデルとしたことは、ほぼ間違いない。 それでは、バッハの意図する所は、何だったのであろうか。 全ての調を使うということの他に重要だったのは、言うまでもなく、完成度の高い芸術性と当時知られていた多種多様の曲のスタイルを集大成することにあった。 バッハが卓越した作曲家、演奏家、教育家であった事実をここにしっかりと確認することができる。 曲集の性格 オルガン用に作曲されたプレリュードとフーガと比較してみると、《平均律》のそれは明らかに短く、意識的に控え目な表現手段をとっている。 それはクラヴィーア用作品全般に言える事だが、演奏者は少数の親しい間柄の聴衆と崇高な音楽体験の旅を楽しむのだ。 そういった性格を持ち合わせた芸術作品は、作曲や演奏を学ぶ者にとっては、最高のお手本になる。 バッハが教育用の作品を手掛けたのは、ヴァイマールでの《オルガン小曲集》に既に見られる傾向だが、《平均律》はバッハ独自のクラヴィーア教育課程に於いて、仕上げの段階に位置づけられていた。 ゲルバーは1724年から二年間、バッハのもとで研鑚を積んでいたが、後に息子に自分の体験を話したようだ。 息子が1790年に出版した《歴史的伝記的音楽家事典》に、それが載っている。 「最初のレッスンで、バッハは彼に自作の《インヴェンション》を与えた。 彼がこれらの曲を、バッハが満足するまで学び尽くしてしまうと、一連の組曲へ、そして《平均律クラヴィーア曲集》へと続いた。 しかもバッハは、この曲集を、その誰にも及ばぬだろう神業でもって、彼のために三回も通して弾いてくれたのである。 私の父は、その時のことを自分の最も幸福な一時と思っていたようだが、バッハが今はレッスンをやるムードになれないとかいう口実を作り、彼の素晴らしい楽器の一つに向かい、数時間をほんの数分に縮めてしまったのだった。 」 バッハが長年かけて作曲した華美で多種多様な形式とスタイルを含む曲集が、教育用に特に有益である、というバッハの教育哲学がここに再確認される。 曲集の構造、形式とスタイル 当時の教会が左右対称に建てられているように、十字架に象徴されるシンメトリーという概念は、曲集全体の構造に留まらず、一部の曲の構成要素や形式にまでも浸透し、支配している。 曲集をまず2分して見てみると、それぞれの終結楽章とも考えられる第12番と24番のフーガに、共通したアイディアが用いられているのが分かる。 前者では主題と応答で12の半音を全て網羅し、後者においては、主題のみでそれを達成している。 これは、この曲集の意図する『全ての調』という概念の象徴的な表現として解釈できる。 それぞれの部を更に3分しているのが、長大な短調のフーガ第4番、8番、20番(16番は、それほど目立たない)である。 また各部の構成を見ていくと、それぞれにおいて、古代様式で書かれた5声のフーガが一曲づつ(第4番と22番)、また第1部には3声のフーガが7つ(残り3つが4声と1つが2声)、第2部には4声が7つ(残り4つが3声)という、何やら意味のありげな数字で 構成されている。 曲集を一つのミクロコスモスとして構築したと考えられる跡も、幾つかみられる。 例えば、最も簡潔で質素なプレリュードで開始し、最も複雑で長大かつ深遠なフーガで終結するという事実や、ありとあらゆる楽曲形式とスタイルを網羅し、声楽曲を思わせる古代様式のフーガから舞曲、ヴィルトオーゾ風の即興まで幅広いヴァリエーションを提示していることである。 プレリュードに限ってみると、形式の面から以下のように分類できる。 ホモフォニックな第1番、2番、5番、6番、10番、15番、21番、ポリフォニックな2声のインヴェンションの第3番、11番、13番、14番、20番、また3声のシンフォニアの第9番、18番、19番、23番、アリオーソの第4番、8番、16番、22番、コンチェルトの第17番、トリオ・ソナタ風の第24番、4声で対位法的に処理された第12番、そしてトッカータ風の導入部と2重フーガの第7番。 フーガは声部や対位法技法の見地から分類するのが相場だが、H. ベッセラーの主張するところの『性格主題』に見られるような主題の持つ旋律の個性や、歴史的見地から観察したスタイルの分類もある程度可能である。 プレリュードとフーガという一対の音楽形式は、この曲集の成立過程をみても分かるように、プレリュードは元来短く、内容的に豊かなフーガの基調を確立するための前奏が目的であったが、この曲集ではエチュード的役割と共に、芸術的な色付けがなされた。 この傾向は、20年後に完成した第2巻で更に顕著となる。 演奏の諸問題 この曲集を当時の楽器で演奏するにあたって、我々は歴史的な正確さというものを目標としてバッハの演奏の再現を目指すべきなのか、それとも、現在の我々の持ち合わせている美的感覚に基づいた鑑賞を究極の目標として過去の再現を試みるべきなのか、意見の分かれるところだが、我々の視点が、単なる音の再現から音楽に秘められた表現へと移される時、演奏を決定づける要素、つまり、装飾音の入れ方、リズムの持つ性格やテンポの正しい解釈等が非常に重要な問題となってくる。 当時の作曲家の水準から見ると、バッハはかなり多くの装飾音を記譜していたことで知られている。 当時は、旋律の形や和声の動き、それにテクスチャーに応じて、演奏家が曲の表現の一部として装飾を入れていった。 つまり、多様なスタイルに関する知識とセンスが、演奏家に要求されていたのである。 バッハが弟子とのレッスンの時に挿入したと見られる例は、現存する筆写譜にいくつもみられる。 また、装飾音の種類は、楽器の持つ個性と演奏会場の音響にも当然影響される。 バッハのクラヴィーア曲には、あまりテンポ表示が見られない。 それは曲集の家庭的、かつ教育的な性格に拠る所が大きい。 この曲集を学ぶにあたって、正しい音を弾くというレベルの上に、正しい解釈が必要である事をバッハは当然のことながら要求している。 一曲一曲それぞれの個性が楽譜に明白に記譜されているのである。 その情報源は多種多様の拍子記号、主なモチーフの動き具合、それに声部間のテクスチャーとリズムにある。 そういう趣向で記譜されているため、この曲集に見出されるテンポ表示は、常識では正確な解釈のし難い、例外的な箇所にしか記入されなかった。 ここでバッハが用いたテンポ表示は5種類、つまりAdagio, Largo, Andante, Allegro, Prestoであるが、4つの曲すなわちプレリュード第2番(Presto, Adagio, Allegro)、10番(Presto)、24番(Andante)とそのフーガ(Largo)にみられるのみである。 ここで大切なのは、テンポ表示は、今日の速度変化を目的とする常識とは趣向が異なり、当時はその情緒的性格を指示していた事である。 それが間接的に速度の変化を促しているのである。 このように歴史的見地からバッハの演奏を細かく探究していくと、音一つ一つに歴史の香りが深く染込んでいるのに気付く。 そこには、過去への道が無限に広がる別次元の世界があるように感じられるのだ。

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「平均律クラヴィーア曲集」の難易度について考えてみる(J.S.バッハ)

バッハ 平均 律 クラヴィーア 曲 集

もし、知っている音楽家の名前を挙げて下さいと聞かれたとしたら誰を答えますか? ベートーヴェンやモーツァルトと並んでバッハと回答する人が多いのではないでしょうか。 バッハの名前は誰もが知っていますよね。 バッハは敬虔なプロテスタント信者で信仰が深く、とても頑固な性格だったそうです。 バッハの最も有名な曲といえば、一般的には「メヌエット」でしょう。 他にも「G線上のアリア」などが有名ですよね。 でも、たくさんの大曲があるのにこれらの曲が有名というのは、彼にとってはもしかすると不本意なことなのかもしれません。 それに、「メヌエット」については、近年の研究でクリスティアン・ペツォールトの曲であったと修正されているようです。 そんなバッハですが、今回はバッハの活躍した時代やその時代の調律方法について触れながら「平均律クラヴィーア曲集」の難易度と弾き方のコツについて第1巻3番を例にして書いていきたいと思います。 バッハっていつの時代の人? 音楽室の壁に音楽家の絵が貼ってありましたよね!絵を見て髪型が気になったことはありませんでしたか?同じような髪型や服装の人がいるなって思いませんでしたか? とくに、左のバッハと右のヘンデルは、似ていると思われたのではないかと思います。 実は、彼らはカツラを被っているんです! バッハやヘンデルが活躍したバロック時代~古典派時代の途中までの音楽家たちは宮廷や教会などに仕えており、宮廷や教会では、きちんとした正装をする必要がありました。 その正装した姿というのが、絵のようなカツラと服装だったのです。 バッハの本当の髪型がどんな感じだったのかは、残念ながらわかっていません。 髪型の話はこれくらいにして、バッハが活躍した時代について書いていきますね。 バッハはバロック時代に活躍した、ドイツの作曲家です。 それまで音楽の中心は声楽曲だったのですが、この時代になると弦楽器や鍵盤楽器の作品も重要なものとして多く書かれるようになりました。 バロック時代というのは、和声的音楽がだんだんと主流になっていく時期でした。 バッハの音楽の特徴は、教会などの声楽曲から発展してきた多声音楽を主として書かれていることだと思いますが、実はこの作曲方法は少し時代遅れになっていたんです。 バロック時代ってどのくらい昔なのかピンと来ませんよね?同じ時期、日本がどのような時代だったのか照らし合わせてみましょう。 バッハの活躍していた頃を日本の時代でいうと江戸時代です。 江戸時代に流行っていた芸術は主に歌舞伎です。 音楽でいえば長唄などです。 西洋音楽と日本の古典芸能や音楽は、全く違うものですが、どちらも素敵ですよね!! 西洋音楽が本格的に日本に入って来たのは明治に入ってからで、西洋音楽の本場、ヨーロッパの国々からは、かなり遅れてからのスタートでした。 しかし、最近では有名なコンクールで日本人が優勝したり、入賞したりと話題になることがどんどん増えてきましたよね! かなり遅れてからのスタートというハンデはありましたが、コンクールの結果をみると日本人がどれだけ頑張って西洋音楽を学んで来たかがわかりますね。 バッハはどんな人? バッハの家系には200年に渡って50人もの音楽家がいました。 すごいですよね! 50人ものバッハ家の音楽家の中で1番有名なのは、やはり私たちがよく知っているバッハです。 彼のフルネームはヨハン・セバスティアン・バッハ(J. バッハ)です。 彼は2度結婚しており、子供の人数はなんと20人! 生まれてすぐに亡くなっている子供も多くいて、20人の子供のうち成長できたのは半分の10人でした。 10人の子供の中にも音楽家として活躍した人がいます。 【音楽家として活躍したバッハの子供】 ウィルヘルム・フリーデマン・バッハ カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ ヨハン・クリスティアン・バッハ バッハはドイツから外へ出ることはなかったのですが、1つの場所にとどまっていたわけではありません。 彼の活躍は、場所によって4つの時代に区分されています。 彼は9歳で母、10歳で父を亡くしており、その後は14歳年上の兄に引き取られる。 オルガン曲を多く作曲。 平均律クラヴィーア第1巻はこの時期に作曲。 眼の手術を2度受けるも失敗に終わり、後遺症などにより65歳で亡くなる。 眼の手術が成功していたらもっと長生きをし、もっと多くの曲を残していたんでしょうね。 とても残念です。 バッハはとんでもなく頭が良かった!? バッハのIQはとても高かったのではないかと言われています。 音楽の作曲方法は主に2つの方法があると思います。 おおざっぱに言ってしまえば、違う旋律を組み合わせて曲にしているようなものです。 それを違和感なく組み合わせるのは、とても難しいことです。 大学時代に対位法を学びましたが、理解したとは決して言えません。 何となくはわかりますが、実際に対位法で作曲をしろと言われると私にはちょっと無理ですね… 楽譜を見ただけでもバッハの頭の良さは何となくわかります。 本当に尊敬します。 バッハは忘れられた存在だった!? 実は、バッハは現在のようにみんなが知っている作曲家ではなくなっていた時期がありました。 完全に忘れ去られてはいませんでしたが、ロマン派の時代にはほとんど演奏されることのない作曲家になっていました。 その理由はバッハがピアノを想定して作曲していないことや作曲方法が古いことなどが挙げられるのではないかと思います。 そんなバッハの音楽を復興したのは、ロマン派の時代に活躍したメンデルスゾーンでした。 メンデルスゾーンはバッハと同じくドイツ出身の作曲家です。 彼は作曲家としてだけでなく指揮者、ピアニスト、オルガニストとしても活躍していました。 メンデルスゾーンがバッハの音楽を復興する最初のきっかけは、14歳のときに「マタイ受難曲」の楽譜をプレゼントされたことだったのかもしれません。 実際にバッハ音楽の復興のための公開演奏で演奏された曲も少し手を加えた「マタイ受難曲」でしたので、メンデルスゾーンはこの曲に思い入れがあったのでしょう。 この演奏会によりバッハの作品は見直され、再評価されることになりました。 メンデルスゾーンがバッハの音楽を復興していなければ、バッハはそのまま忘れられた存在になっていたかもしれません。 「平均律クラヴィーア曲集」の平均律って何? 平均律とは「1オクターブ(半音ずつで12の音)の音程を均等な周波数で分割した音律」のことです。 現在聴いている楽器の音はこの平均律によって調律されたものです。 バッハはなぜ「平均律」という言葉をわざわざ入れた曲集を作ったのでしょうか? それはバロック時代の調律方法の主流が「平均律」ではなく、「純正律」や「中全音律」といった調律方法だったからです。 平均律が主流になっていったのは、転調や移調ができるという点が大きいと思います。 あらゆる調で弾ける曲集! 平均律クラヴィーア曲集の原題は「Das wohltemperierte Klavier」です。 wohltemperierteとは「よく調整された」という意味です。 つまり、 あらゆる調で弾くことが可能な調律方法をとった鍵盤楽器のための曲集ということです。 あらゆる調で弾けるということは、純正律ではなく、平均律ということになりますね。 当時は平均律以外にも、平均律と同じようにあらゆる調で弾くことが可能な調律方法があったようなので、バッハは必ずしも平均律で調律されたものを想定して作曲をしていなかったかもしれません。 平均律に慣れてしまっている私たちにとっては、現在聴いている音のどこにひずみがあるのか全くわかりませんよね。 平均律で調律したピアノと純正律で調律したピアノの聴き比べができる動画を見ましたが、私は平均律の音の方が良かったです。 純正律の方は音が低く、調律されていないピアノのような感じがしました。 それだけ平均律に慣れてしまっているということなんでしょうかね。 クラヴィーアって何? クラヴィーアとは鍵盤楽器の総称です。 バロック時代の鍵盤楽器は主にオルガン、チェンバロ、クラヴィコードの3つでした。 鍵盤楽器と聞くとピアノをイメージされたと思いますが、現在のピアノの元となったピアノ・フォルテは発明されて間もない頃で、まだまだメインの楽器ではありませんでした。 ピアノで弾くことを想定し、ピアノで作曲をし始めたのは、ベートーヴェンくらいからです。 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は楽器の指定が特にされておらず、クラヴィーアとなっているので、オルガン、チェンバロ、クラヴィコードのどの楽器で弾いてもよい曲ということになります。 バッハはクラヴィコードがとても好きだったようなので、クラヴィコードで弾いて欲しいと思って作曲していたかもしれません。 現在はピアノで弾いていますが、バッハはピアノで弾かれることになるとはあまり想定していなかったでしょうね。 BWVって何? バッハの楽譜に書いてあるBWVって何だろうと思ったことはありませんか? 「 B ach- W erke- V erzeichnis」の頭文字を取ったもので、 バッハ作品目録という意味です。 ヴォルフガング・シュミダー(音楽学者)が1950年に提唱したもので、彼がつけた番号を他の音楽家や音楽学者も採用しました。 作曲された順にただ通し番号をつけたのではなく、ジャンルごとに番号を分けてあるのがこの作品番号の特徴です。 BWV 1 から始まるのですが、例えば鍵盤楽器の番号でいうと、 BWV 525~ オルガン曲 BWV 772~ オルガン以外の鍵盤楽器 このようになっています。 作品番号の数字を見るだけでどんな楽器が使われているかが、だいたいわかるようになっているということです。 平均律クラヴィーア曲集の難易度は? 平均律クラヴィーア曲集は第1巻と第2巻があり、第1、第2巻ともプレリュードとフーガの2曲をセットにし、24曲ずつ入っています。 この24曲は同じ調が1つもありません。 24曲もあれば同じ調が1つくらいあっても良い気がしますが、この曲集は同じ調は使わないというコンセプトで作曲されています。 先ほど平均律について書きましたが、平均律で調律することによってあらゆる調で弾くことが可能になったため、バッハは全調(24調)で作曲し、曲集にまとめることにしたんです。 その曲集が「平均律クラヴィーア」です。 調の順番は1番Cdur、2番cmoll、3番Cisdur、4番cismoll~となっています。 長調のあとに短調(同主調)が来るようなっており、そして半音ずつ上がっていきます。 「平均律クラヴィーア曲集」のことがだいたい理解できたと思いますので、この曲集の難易度について解説していきますね。 初めて弾くバッハの曲は多分皆さん「メヌエット」だったのではないかと思います。 私の場合、この曲は初歩のお子さんの発表会の曲として渡すことも多いのですが、左手も結構動くのでなかなか難しいようです。 その次はインヴェンション(2声)やシンフォニア(3声)ではないかと思います。 バッハの曲を弾くときの難しさは、右手も左手も対等に扱わなければならないことです。 どちらがメロディーでどちらが伴奏というのではなく、どちらも重要な声部の1つです。 平均律クラヴィーアを弾くには、シンフォニアまで弾いていないと厳しいと思います。 平均律クラヴィーアのプレリュードはそれほど難しくはないのですが、フーガは多いもので5声を弾き分けなければいけません。 弾き分けるのはとても大変です。 この曲集を弾くには、 1本1本の指が独立して動かせること、 声部がどのように動いているのかという楽譜を読む力、そして、 それぞれの声部ごとの音を聴き分けられる耳が必要です。 きちんと声部ごとに音を聴いて弾くのはかなり難しいとは思いますが、そこまででなくても楽譜が読めてそれなりに弾けるようになるのは中級レベルくらいからだと思います。 この第1巻で有名なのは、1番と2番だと思いますが、今回は私の好きな3番のプレリュードとフーガについて解説していきます。 3番は特に弾きにくいという感じはあまりないと思いますが、調号がシャープ7つと多いことやダブルシャープが多く出てくるという点で譜読みが多少難しく感じるかもしれません。 平均律クラヴィーア曲集の弾き方のコツは? バッハの弾き方には2タイプあると思います。 大学時代、バッハが課題曲になった試験がありましたが、やはり抑揚をあまりつけない弾き方をした人の方が点数が良かったです。 私は強弱をつけてペダルも使って弾いた方なので、あまり点数は出ませんでしたが、この弾き方の方が素敵だと個人的には思っています。 ブライトコップ社のムジェリーニ版は、テンポ指定や強弱、トリルの入れ方など細かく書いてあるので、とても勉強になります。 3拍子をしっかり意識することです。 最初の右手の16分音符1つ1つの音をメロディーだと思って弾くと重く、野暮ったい感じになります。 ここは左手でリズムをしっかり刻んで弾いていくつもりの方が良いと思います。 両手とも1拍目を少し強調するようにし、音が上がるに従ってクレッシェンドしていくと上手に聴こえます。 途中、音型が入れ替わります。 この部分は先ほどの弾き方を逆にして下さい。 右手でできていても、左手となると難しいかもしれません。 左手だけよく練習しましょう。 この部分は音型がガラッと変わり、弾き方も変わります。 この部分の聴かせたい音は右手の2コ続きの16分音符と左手の8分音符3つです。 ここも1拍目を強調し、後は軽く弾きます。 右手の16分音符のGisは左手の8分音符の音よりも大きくなるとカッコ悪いので、重みをかけず機械的に動かし、リズムを刻むだけになるように注意しましょう。 楽譜を見ているだけでは声部の動きがなかなかわからないので、書き出してみることをおススメします。 3番のフーガは3声なのでソプラノ(S)、アルト A 、バス B の3声部になります。 書き出す時の注意点は、 縦の線を必ず揃えることです。 そうしないと弾く時にとても弾きにくいですし、どこでどの音が一緒に鳴るのかが見ただけではわからなくなってしまいます。 S-A、S-B、A-Bの3種類の組み合わせで練習しましょう。 どの声部の音もよく聴いて弾けるようになりましょう。 誰かにもう1声部弾いてもらいながら弾く練習が良いのですが、無理な場合は、1声部弾いたものをあらかじめ録音しておいて、2声にするという方法が良いと思います。 Aパートは右手で弾いたり左手で弾いたりしなくてはいけないので、よく練習しましょう。 このような段階を踏んでいくと、どの声部の音も聴こえてくるようになります。 IMSLP(第1巻BWV846~869) 第1番BWV846~第12番BWV857()第13番BWV858~第24番BWV869()本記事はこの楽譜を用いて作成しました。 1894年にシャーマー社とブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から共同出版され、後に再版されたパブリックドメインの楽譜です。 第3番BWV848は最初の楽譜の16ページからになります。 IMSLP(第2巻BWV870~893) 第1番BWV870~第12番BWV881()第13番BWV882~第24番BWV893()1915年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版されたパブリックドメインの楽譜です。

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