鎌原 観音堂。 初秋の上州、歴史・文化の拠点を行く 青山貞一、池田こみち

鎌原観音堂 軽井沢 日本のポンペイ!浅間山大噴火で唯一残った奇跡の観音堂 長野&群馬県を巡る旅⑦

鎌原 観音堂

当時の村の人口570人のうち、477人もの尊い人命が失われた。 噴火による土石なだれに気づき、この観音堂にたどり着いたわずか93人のみが奇跡的に助かった。 この鎌原は、大噴火によって、村全体が埋まってしまった場所である。 このことから「東洋のポンペイ」と呼ばれ、世界的規模の噴火災害であった。 村で唯一残ったのは、高台にあった鎌原観音堂だけである。 一瞬にして5~6mの土石の下に埋まってしまった。 石段は当時50段あったが、上から15段を残して土に埋もれてしまい、「天明の生死を分けた15段」として語り継がれてきている。 観音堂は村人を守った奇跡の地として知られている。 昭和54年の発掘調査の際に、石段の最下部50段の所で女性2人の遺体が発見された。 骨の重なり方から背負った人と背負われた人と考えられ、高齢の女性を背負って、石段下までたどり着いたところで、「土石なだれ」に埋まってしまったと推定され、災害の悲惨さに触れることができる。 災害で生き残った村人たちは、畑や家屋、そして家族までを一瞬にして失ったため、それぞれ離散する運命にあったところを、大笹村の名主黒岩長左衛門、干俣村の干川小兵衛、大戸村の加部安左衛門らが支援の手を差し伸べた。 さらに、「このような大災害に遭っても生き残った93人は互いに血の繋がった一族だと思わなければいけない」と生存者たちに親族の誓いをさせて、家柄や身分の差を取り払った。 後々まで語られる「浅間山噴火大和讃」での一節に「隣村有志の情にて、妻なき人の妻となり、主なき人の主となり」とあるように、家族の再編成をおこなったことは、江戸時代においても、非常事態に際してギリギリのところで発案された民衆の英知であった。 鎌原は、このような骨肉の思いで埋まった鎌原集落の真上に今の集落を復興した。 私たち鎌原の人々を救ってくれた観音堂として235年間大事にお守りをしている。 また、8月5日には200回忌の正観音像の前で「浅間山噴火大和讃」を唱え、毎年供養祭を行っている。 現在、災害から村人の命を救った観音堂は、厄除けの観音として信仰され、多くの参拝者や観光客で親しまれている。 観音堂と石段、33回忌の供養塔などが県の史跡指定を受けていて、災害と復興の歴史を受けつぐ鎌原観音堂奉仕会の方々によって、たいせつに鎌原観音堂は守られている。

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浅間山観音堂について

鎌原 観音堂

群馬県嬬恋村(つまごいむら)にある鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)の画像をご覧下さい。 変わっている所があります。 階段に橋が架かっていますが、水が流れている訳ではありません。 朱色の橋の下に階段が続いているのです。 天明3 1783 年8月5日(旧暦7月8日)、浅間山火口より12km離れた鎌原村(かんばらむら)は、浅間山の噴火による「土石なだれ」に襲われてしまいました。 村人570人のうち、477人もの命が失われました。 15段を残して村全体が土に埋もれてしまいました。 そして、観音堂にたどり着いた人のみが奇跡的に助かったのです。 約200年後の昭和54年に発掘調査が行われ、元々50段あったとわかりました。 5~6メートルも、土に埋もれていたのです。 その調査から階段に女性が二人、重なるように倒れているのが発見されました。 二人の女性は、40才くらいと60才くらいでした。 調査を進めると、若い女性が年配の女性を背負うように倒れていることが判明しました。 今でも「天明の生死を分けた15段」として語り継がれています。 余談になりますが、東日本大震災の津波の調査をしていた人が、あることに気づきました。 沿岸にある複数の神社の手前で津波が止まっていたそうです。 調査をした人は「神様がいるのではないか」と言っていました。 その時、僕は鎌原観音堂のことを思い出したのです。 もちろん神様が津波を止めたのではなく、過去に起きた災害を教訓として、その位置に移したのかもしれません。 それでも、昔の人々が神社や観音堂を、大切に守ろうとしてたことは相違ない事実です。 以前、コンビニの数と神社のどちらが多いか? というクイズがありました。 コンビニが5万で、神社が8万だそうです。 僕は群馬に住み移り、近くにコンビニなど無くとも神社やお寺、関連する形跡は数知れずと感じます。 (全国に同様ではないかと思います) こうしたものが本当の力を発揮し霊的な灯りとなれば、夜の衛星写真【】のように、日本が神様や仏様という高貴な存在からも見えることでしょう。 子供の頃読んでいた「まんが日本の歴史」に埋もれてしまった女性二人の話が載っていて、切なくなった覚えがあります。 この神社なのですね・・・。 当時であれば高級な幽気が降りていたでしょうか。 この二人が救われていると良いのですが。 長野にも沢山の神社、仏閣があって、秋ともなるとお祭りが多く行われていますが、神輿に乗って騒いだり、出店ばかりがにぎやかだったりと、肝心かなめな信仰心はほとんど感じられません。 ハロウィンみたいな祭りばかり流行ってしまう日本では、普通に畳の上で死んだとしても、死後は、この女性二人が入った世界とはあまりに違う、おぞましい世界に入るしかありません。 もっと明かりを点けなくては。 つたない写真ですが、うれしく思います。 観音様のお堂なので、細かく言うと神社ではないです。 浅間山の信仰は、富士信仰とつながりがあり、浅間山の祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)だったようです。 神仏習合の日本では、密教との結び付きもあり、神様を崇拝しながらも菩薩様を敬っていたのが、観音堂の近くの延命寺です。 このお寺は埋没してしまいましたが、その住職は、その時、村人と一緒に浅間山の中腹までご祈祷に行っていたらしいのです。 もしかしたら、助かった人々は浅間山の鎮静化を願って祈っていたのかもしれません。 浅間神社の祭神は、磐長姫命(いわながひめのみこと)になっています。 長野県側でも同じだと思います。 しかし、これは明治になって政府から神仏判然令が出されます。 この時から祭神が変わってしまったようです。 長くなりましたが、神様を崇拝しつつも菩薩様を尊崇していたので、細かいことを気にしなくても良いでしょう。 長野県は、有名なお寺や神社がありますね。 貴重な遺跡もあります。 地図を見ると、長野県は二県分の広さを感じます。 洪水で、土地が水につかっても、行政が、治水をきちんとしていなかったからだ、とか、川の土手の工事をはやくしていたら、とか、言いますが、結果論とも思えたり、自然災害など、どんなに、準備していても、土砂崩れなどは、予見できたとしても、もともと、山を切り崩して、海を埋め立てて、土地をつくっていたり、ダムも、人間が作ったもので、大雨で、ダムの貯水量が増せば、川下に流すしかないと思うのに。 後になって、行政が悪い、避難の放送が聞こえなかった、など、人には、限界があるのでは?と思いますが、身近な人が死ぬと、誰かのせいにしないと、自分の心が、落ち着かないのも、わかるような気もしますが、火山の噴火でも、震度計が反応していなかったとか、何かのせいにする気持ちは、いつの時代も変わらないのかなと。 神様にも、助けてと願い、聞き入れてもらえないとうらむ。 人間って。 自分が悪いと、なかなか認めない、 『認めたくないものだな、自分自身の若さゆえのあやまちというものを。 』(シャア・アズナブル)の名言より 「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」という立派な言葉があります。 その反対のことをしてしまうのが、人間というもののようです。 多くの人が、これを実践できれば、平和な世の中になることでしょう。 反面、本人の大きなストレスに繋がるような気もします。 深く考えれば、動物や植物といった生命を奪いながら、生きているのが人間です。 そんなことは棚に上げて、自分たち中心に思考を巡らせているのも事実です。 本当に、人が生きるとは矛盾ばかりです。 少し難しい話になりますが、キリスト教で言う、「原罪を知れ」ということでしょうか。 幸いなことに、この日本では古来より、人間が持つ罪や穢れの解消法として「禊」があります。 契山館では、難題を霊魂学をもとに紐解き、神伝禊法などの霊的トレーニングを指導しています。

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鎌原 観音堂

常林寺 現住所、群馬県吾妻郡長野原町大字応桑547 には、今まで何度もでかけている。 それには理由がある。 里山のこんもりした森の中にたたずむ常林寺 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12 常林寺全景 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 常林寺は、旧小宿村近くにあるが、その周辺にはすばらしい里山があり、棚田があり、そして小宿川の渓流がある。 何気ない小自然だが、これが何とも心地よいのである。 まさに自然と人間との共生の原点を見る思いがするのである。 常林寺の周辺。 そこにはすばらしい里山があり、棚田がある 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 そして小宿川の渓流がある 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 ところで、この常林寺は、1783年、天明3年に浅間山が大爆発を起こしたとき、集落もろとも火砕流で埋没している。 大噴火前、常林寺は、小宿川川を挟み反対側にあった。 以下は、1783年、天明3年に浅間山が大爆発をの模様を書いた記録の一部である。 このとき発生した火砕流に 嬬恋村(旧鎌原村)では一村152戸が飲み込まれ483名が死亡したほか、群馬県下で1,400名を超す大きな犠牲者を出した。 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。 下側が鎌原村 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008. 5 出典:鎌原村郷土資料館 天明3年の浅間山大噴火の経過 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008. 5 出典:鎌原村郷土資料館 浅間山の大噴火により大量の溶岩と火山灰が噴出し、溶岩流は北側の吾妻川流域へ火砕流となり山腹を流下した。 流下した溶岩は三派に分かれ、一派は東方の分去り茶屋に、もう一派は西方の大笹方面に、残りの一派は他の二派の中央を真直ぐ北流した。 流下した溶岩は、大きな火砕流となって山腹を走り、分去り茶屋に向かったものは、小熊沢川と赤川に流れ込み、 旧小宿村・常林寺を経て芦生田集落を埋没させた。 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。 下側が鎌原村 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008. 5 出典:鎌原村郷土資料館 大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込んだ。 そして中央を北流したものは、 旧鎌原村を直撃し一村を壊滅させた上で、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下した。 浅間山噴火による火砕流の流下により旧鎌原村では一村約100戸が呑まれ、483名が死亡したほか、長野原210名、川島128名、南牧104名など多くの犠牲者を出した。 以下はその一部である。 集落数 死者数 流家数 集落数 死者数 流家数 鎌原 483 152 長野原 210 西窪 42 21 坪井 8 与喜屋 55 立石 3 大前 74 100 川原畑 4 21 芦生田 23 43 川原湯 18 赤羽根 15 川戸 7 10 羽根尾 20 51 岩井 1 中居 10 川島 128 150 小宿 57 60 三島 16 57 今井 36 松尾 3 6 出典: 天明3年の浅間山大噴火では、常林寺は小宿集落にあり火砕流による死者数57人、流家数60戸であったが、浅間高原北側の鎌原村(現在、嬬恋村)だけで、死者が483人、火砕流による流家数が152戸もあった。 下は、この観音様に逃げ込んだ村民、数10名が生き残ったとされる鎌原観音である。 この観音堂は私達の別荘からも近く、今まで別荘に来る度にお参りに出かけている。 2 以下の写真は2008年11月に撮影したものである。 嬬恋村の鎌原観音にて 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008. 2 以下の写真は2013年4月に撮影したものである。 嬬恋村の鎌原観音にお参りする池田こみち、鷹取敦 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2013. 4 嬬恋村の鎌原観音にて 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008. 2 この鎌原神社は、天明の浅間山大噴火で多くの村民が亡くなったなか、下の写真にある観音様の階段を上りつめた数10人の命が助かったことから、今でも嬬恋村村民にとって大切な観音様となっている。 鎌原神社の「階段」 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009. 2 天明3年浅間やけ遺跡の解説板 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2013. 4 群馬県指定史跡、天明3年浅間やけ遺跡の解説板 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2013. 4 鎌原観音には、火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨の以下の写真が展示されている。 詳しくは隣にある郷土資料館に資料や写真がある。 火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、 母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 上記親子それぞれの顔型。 現在ならDNA鑑定すれば 親子であるかがどうかがすぐに分かるだろう。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 浅間山、十石なだれ、鎌原観音(発掘地点)の位置を表す写真 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2008.

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