ローマ 法王 ローマ 教皇。 ローマ教皇の一覧

「ローマ法王」の呼称の由来は?教皇との違いは何?どっちが正しい?|TOKYO SCOPE

ローマ 法王 ローマ 教皇

この項目では、カトリック教会の最高指導者について説明しています。 教皇のその他の用法については「」をご覧ください。 一般的にはカトリック教会のにして全世界のカトリック教徒の精神的である ローマ教皇を指す。 教皇のは「教皇位」あるいは「教皇座」と呼ばれる。 また「」 あるいは「使徒座」 という用語も使われる。 「聖座」と「使徒座」は中世の教会法学者たちによって形成された概念で、第一に教皇を指すが、広義においてはをも指す。 2013年3月からはが教皇を務めている。 では「 ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のの中央団体であるは「 ローマ教皇」の表記を推奨しており、日本政府は2019年に「法王」から「教皇」へ呼称の変更を発表した()。 またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。 なお、退位した教皇の称号は(名誉法王とも)という。 本項では主に教皇について記述する。 その他の教皇についてはの節を参照。 概説 [ ] 初期のローマ司教たちはの後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「の代理者」と評すようになっていった。 「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのはで、ローマの会議において教皇を指して用いられたものがもっとも初期の例である。 これは五大座(ローマ、、、、)の中におけるローマ司教位の優位を示すものとして用いられた。 教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家のというたる地位をも担っている。 のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、と呼ばれていた。 教皇領の成立の根拠とされた「」が偽書であることは以降広く知られていたが、教皇領そのものは統一まで存続した。 1870年以降、とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやであったがに結ばれたによってようやくイタリアとの和解を見た。 現在の教皇は出身の(在位: - )である。 史上初の出身の教皇であり出身の教皇である。 先代の教皇の(在位: - )はドイツ出身であり、先々代の教皇(在位: - )はポーランド出身とイタリア人・イタリア以外の地域の出身の教皇が3代続いている。 それ以前の非イタリア人の教皇の先例は、ともともいえるの、非ヨーロッパ出身の先例は出身のまで遡る。 称号 [ ] 「教皇年鑑」によれば現在、教皇に用いられる公式な称号には以下のようなものがある。 ローマ司教(: Episcopus Romanus)• キリストの代理人(: Vicarius Christi)• 使徒のかしら(頭)の継承者(: Successor principis apostolorum)• 全世界のカトリック教会の統治者(: Caput Universalis Ecclesiae)• イタリア半島の(: Primas Italiae)• ローマ(: Archiepiscopus et metropolitanus provinciae ecclesiasticae Romanae)• バチカン市国の首長(: Princeps sui iuris Civitatis Vaticanae)• 神のしもべ(僕)のしもべ(: Servus Servorum Dei) バチカン年鑑2006年版からは、ローマ教皇の保持していたタイトル「西方の」(: Patriarcha Occidentis)が「不正確で、歴史的にも時代遅れ」との教皇の指示で削除された。 が公式言語であるの正文の中では、教皇は「Romanus Pontifex ロマヌス・ポンティフェクス」(ローマ司教)という名であらわされる。 このような長大な正式名称でよばれる機会はほとんどない。 たとえばなら「Paulus PP. VI」である。 PPは Papa の略である。 また、ローマ時代のから引き継がれた名称である「Pontifex Maximus ポンティフェクス・マクシムス」(最高司祭の意)の略称である「P. 」あるいは「Pont. Max. 」という称号が書き加えられることもある。 などの公式文書には正式に「教皇名、カトリック教会の司教 Episcopus Ecclesiae Catholicae 」と署名される。 文頭にはよく「教皇名、司教にして神のしもべのしもべ Episcopus Servus Servorum Dei 」という署名が書き込まれる。 この形式は大教皇とよばれたにまでさかのぼる古い呼び名である。 そのほかの称号として「summus pontifex」、「sanctissimus pater」(至聖なる父)および「beatissimus pater」(もっとも祝福された父)、「sanctissimus dominus noster」(われらがもっとも聖なる君主)などがある。 中世においては「dominus apostolicus」(使徒的君主)も使われ、現在でもラテン語の荘厳な連祷の中で、その格変化型である「dominum apostolicum」と呼ばれている。 変遷 [ ] 初代教会の時代から一貫してローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、のローマ到着以降、数世紀をかけて徐々に発達していったということはカトリック教徒も含めて広く受け入れられている。 古代のローマはの首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所であった。 しかしそのころのローマ司教の権威と影響力はローマの外へおよぶものではなかった。 がごろ、の信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、もごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれている。 この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考えるものと、単に的なもので実際的な権威はなかったというものがいる。 2世紀(ごろ)になって、が『』3:3:2でローマ教会の首位権について述べている。 そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである。 」この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものであるが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられる。 特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとでその傾向は顕著となった。 のにおいて教皇が出席を見合わせたのもその地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからである。 半世紀後のに着座した大教皇の時代になるとローマ教皇こそが、イエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継がれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになる。 のではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べた。 当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていたが、この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出したが、ローマ側から事の判断をうやむやにしているという意見が出て受け入れられなかった。 世俗君主との関係では頃までの主権下にあり、教義問題で皇帝と対立した教皇が逮捕され、流刑に処されるということもあった。 8世紀中ごろが成立し、から離脱した。 カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威がに由来するものであるとしている。 特に重視されるのはの16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。 「シモン・バル・ヨナ。 お前は祝福されたものだ。 このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。 わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。 この岩の上に私の教会をたてよう。 死の力もこれに勝つことはできない。 わたしは天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。 」 この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。 ただし、この聖書箇所については、教皇権の根拠とするこのようなローマ・カトリック教会における解釈は、、では受け入れられていない。 継承 [ ] 選出 [ ] 詳細は「」を参照 古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。 に選挙権がに限定され、に入ってすべての票の権利が同等とされた。 教皇は枢機卿団から選出される。 教皇に選ばれるための条件は、(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかなかったので、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっていた。 教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇は、に選ばれた教皇である。 現行の教会法では80歳未満の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こらない。 のでは、教皇選挙のシステムが規定された。 それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。 これはの教皇の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在()が続いたことを受けて定められたものであった。 16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。 教皇選挙の唯一の方法は、枢機卿団による投票である。 伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがあった。 満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが以降用いられたことはなく、によって「代表たちによる方法」と共に廃止された。 以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心としてからへ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。 そして大聖堂につくと教皇はを受け、教皇としての最初の祝福()を与える。 続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「近代主義に対抗する誓い」とよばれた)教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであった。 しかし、以降、この種の古めかしい儀式は、教皇の就任時に行われていない。 ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。 この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。 この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。 彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。 彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。 特にと呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。 このため、特に第2バチカン公会議以降、複数の自称教皇()が現れている。 死去 [ ] 現在、教皇の不在時()における対応を定めているのはのによる教皇文書『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。 それによれば教皇不在時にはを中心に枢機卿団が集団指導制によってバチカン市国とカトリック教会全体を指導する。 しかしでは教皇不在時になんらかの重大な決定や変更を枢機卿団だけで行うことは禁止されている。 教皇の承認を必要とする決定は新教皇の着座まで保留される。 教皇の死の確認に関しては、首席枢機卿が教皇の本名を三度呼び、銀のハンマーで額を三度たたくという方法によるとされていたが、あまりに時代錯誤であると批判の対象になっていた。 但しこの半世紀の間、実際にこの方法が用いられたことは無いとされ、医師による科学的知見に基づいた死が確認された後に「伝統的な儀式」として行われ、この時点で首席枢機卿が教皇の右手から「」を外す。 の場合は、晩年になって自ら指輪をはずしていたが、通常は教皇の死去時に指輪がはずされる。 指輪には教皇の印章が彫られているため、悪用を防ぐために破壊されることになっている。 教皇の遺体はすぐ埋葬されず、数日間聖堂などに安置される。 20世紀の教皇たちはみなサン・ピエトロ大聖堂に安置されてきた。 教皇庁は埋葬後、九日間の喪に服すことになる。 これをラテン語で「ノヴェム・ディアリス」という。 辞任 [ ] 「」も参照 332条第二項によれば、教皇が辞任(退位)するために必要な条件はあくまで自発的な辞任であることと、定められた手続きを守ることである。 ヨハネ・パウロ2世までは事実上の終身制となっており 、教皇の自発的辞任は直近で600年ほど例がなかった。 しかしベネディクト16世は2013年2月11日、高齢を理由として2013年2月28日午後8時をもって辞任すると宣言し、そのまま辞任が成立した。 辞任後の教皇は名誉教皇(Pope emeritus)と呼ばれの尊称も維持される。 辞任後は死去時同様であるが、服喪がないことが大きな違いである。 ベネディクト16世は辞任前に規定を追加し、全有権枢機卿がそろっていれば、コンクラーヴェ開始の前倒しを可能とした(もちろん会場であるシスティーナ礼拝堂の準備が整っている必要があるが)。 なお、2002年6月と7月の二度にわたってヨハネ・パウロ2世が教会法にもとづいての辞任を検討していたことがイタリアのメディアによって報道されたことがある。 ヨハネ・パウロ2世の遺言でも2000年に80歳の誕生日を迎えたことを節目に真剣に辞任を検討していたと報じられているが、定かではない。 ヨハネ・パウロ2世は晩年、さまざまな病で苦しみ、職務を果たせないと考えていたようではあるが、最終的に2005年4月2日の死まで教皇職にとどまることとなった。 シンボルと徽章 [ ] ( 、 ()(Cross keys(交差する金の鍵と銀の鍵)) Triregnum はここ数代の教皇たちは用いていない(取り止められたのは中頃から)が、古代以来ローマ教皇のシンボルとなっている。 教皇は典礼儀式の中では司教のしるしである(司教帽)をかぶっている。 十字架のついた杖も13世紀以前から用いられている。 また(幅二インチほどの布製の輪)がカズラの上に着用される。 金と銀の二つの鍵が交差する形で描かれる天国の鍵も教皇のシンボルとして用いられている。 そのうちの銀の鍵は現世的な権威を、金の鍵は宗教的な権威を示している。 漁師だったペトロにちなんで「漁師の指輪」と呼ばれる金の指輪も教皇によって用いられている。 また、ウンブラクルム unbracullum として知られる教皇用の赤と金の線が入ったの図柄も用いられることがある。 古代以来、長きにわたって教皇のシンボルとして用いられたものにがある。 みこしのような土台に教皇の椅子が備え付けられ、12人の従者によって運ばれる。 さらに二人のもちが付き添ってあおぐのが慣例であった。 教皇用輿はあまりに前時代的であるということでヨハネ・パウロ1世も使用を嫌がったが、ヨハネ・パウロ2世によって正式に廃止された。 ヨハネ・パウロ2世は移動用に教皇用オープンカー()を初めて用いた。 教皇はまた独自の紋章を持っている。 図柄は歴代の各教皇毎にそれぞれ違うが基本的な構成はほぼ同じであり、交差して組まれた金と銀の鍵、三重冠、赤い組紐は必ず描かれてきた。 とされているのは黄色と白の旗であり、教皇の三重冠がそこにも描かれている。 この旗がはじめて現れたのはのことであり、それ以前、教皇庁は聖座の色である赤と金の旗を使っていた。 装備品 詳細は「」を参照• () - 肩掛け• () - 帯• papal mantle - ()(マント)• () - 杖• 「」(、漁夫の指輪とも)• - 靴 地位と権威 [ ] 教皇は、カトリック教会の長(聖座)として宗教上の権威と、バチカン市国の国家元首として国際法上の権威の両方を保持している。 数百年の長きにわたり、(ローマの聖座)はカトリック教会の枢要機関として機能してきた。 「 」 Sancta Sedes あるいは「使徒座」という言い方は、教会用語でローマ教皇(と教皇庁全体)の特別な権威を示すものである。 歴史上、ローマ教皇座以外では例外的に座についても「聖座」の称号が用いられたが、1802年に大司教の位を廃されて以降のマインツ司教は特別な権威を失い、現在ではこのような呼び方は一般的ではない。 国際社会とカトリック教会の中で認められてきた教皇の特別な権威・栄誉・特権は、すべて使徒の頭ペトロの権威から引き継がれたものとみなされてきた。 ペトロの権威によってローマはカトリック教会の中で中心的な位置を占めることになった。 ローマ教皇はあくまでローマ司教としてその権威を行使するが、ローマに住むことが必須というわけではない。 ラテン語の定式「Ubi Papa, ibi Curia」(教皇が住むところは、どこでも教会の中央政府である)という言い方は、教皇がカトリック教会の中心都市に住む限りローマ司教であり続けることができることを示している。 たとえばからにかけて教皇座はにおかれていた()が、これはの故事になぞらえて「教会の」あるいは「」とよばれた。 現在の教皇の司教座聖堂はであり、公邸はである。 また避暑用の別荘として(古代の都市の近く)に別荘を持っている。 歴史上では、教皇は長きにわたってを在所としており、避暑用の施設はであった。 クイリナーレ宮殿はその後、イタリア王の宮殿を経て、大統領公邸になっている。 現在の教皇の地位を規定しているのは()で採択された教義憲章「キリストの教会」である。 同憲章の第一章は「ペトロに由来する使徒的首位性」というタイトルで、「福音書からも、主キリストが使徒ペトロに他の人々に優越する権威を与えたことは明らかである」(第1節)と述べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒のかしらとされ、教会の目にみえるしるしとして立てられたということを認めず、そのイエスからの直接の権威が単に名誉的なものだけで実質的な意味を持たないというものは教会から排斥される。 」としている。 (「~は教会から排斥される」という表現はと呼ばれるもので古代以来、第1バチカン公会議にいたるまで用いられ、カトリック教会が教義について述べた文章に必ず添えられる定型文であった。 ) 第二章「聖座におけるペトロの権威の存続について」では、「主キリストがペトロに与えた権威は永続的なもので、『岩の上にたてられた』教会として存続し、『おわりの時』まで続くものである」と述べ、「ペトロの座を引き継いだものは誰でもキリストに由来する権威を保持し、全教会に対する首位性を有する」とする。 よって「この権威がキリストの意図によるものでなく、ペトロの権威は永遠のものであることを認めないもの、ローマの聖座がペトロの権威を継承していないというものは教会から排斥される」という。 第三章「ローマの聖座の有する首位権の力と性質」では、「においてローマの聖座、使徒座は世界の教会におよぶ首位性を持ち、ローマの聖座が使徒の長、キリストの代理であるペトロの権威を引き継ぎ、全教会の父・教師たる地位を持つ旨が宣言されている」とし、「この聖座の布告にもとづいて、ローマ教会は他の教会に対しても卓越した地位を保持する」としている。 教皇の力は同憲章の3章などに定められている。 それは「信仰の最高の判定者であり、信仰の問題についての決定権を持つ。 すなわち聖座としての決定的な布告は、誰も覆すことができない」というものである。 これは同じ公会議で布告された教皇不可謬性の問題と密接な関連を持っている。 第2バチカン公会議以前のカトリック教会では「救いのためにはローマの聖座とのかかわりが必要である(教皇の言葉)」と伝統的に教えており、この考え方はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会の外に救いなし)という言葉で表されてきた。 パウロ6世も「教会の外にいるものは聖霊の恵みを受けられない。 カトリック教会は現代に生きるキリストの体である。 だからこそ、もしそこから離れてしまえば聖霊の恵みを得ることができないのである。 」といっている。 しかし、この考え方はカトリック教会以外の人だけでなく、肝心のカトリック教会の中でも誤解されてきた。 歴代の教皇たちは「カトリック教会の中にいる人々は救いにつながっている」といっている一方で「カトリック教会と縁のない人々が救われないというわけではない」ということをしばしば強調している。 ピウス9世は回勅『クアント・コンフィカムル・モエロール』()でこう述べた、「わたしたちは、われわれの聖なる宗教とかかわりのない人であっても、神によって全ての人の心に書き込まれた自然法に従い、徳に満ちた人生を送るなら、神の力と照らしによって永遠の命に入ることができるということを知っている。 」 ヨハネ・パウロ2世は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中で「現代のみならず、過去においても、福音や教会について知る機会がなかった多くの人々がいて、たとえ彼らがまったくキリスト教と関わることがなくても、神秘的な絆によって、キリストの救いを受けてきたことは明らかです。 」といっている。 教皇のものとされ、実際に行使されてきた権能は以下のとおりである。 司教の任命、教区の設立と廃止、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、典礼祭儀の変更、の改定、と、教会裁判の最高決定権、回勅の公布、(信仰と道徳に関する事柄についての)不可謬な宣言、の承認と禁止。 ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。 政治的役割 [ ] にではキリスト教徒の数が飛躍的に増加したが、が世俗において何らかの権力を獲得することはなかった。 ローマ司教がその信徒に対する影響力によって帝国の行政システムの中で力を与えられるようになっていったのは以降のことである。 教皇が政治的な存在感を初めて見せつけたのはにローマに侵入してきたを教皇が駆け引きのすえに撤退させることに成功したことによってであった。 さらににはの(小ピピン)が領土の一部を教皇に寄進したこと(ピピンの寄進)は、教皇の政治的な影響力が無視できないものになっていたことを示している。 この土地が後のの基礎となった。 には教皇がフランク王国のにローマ皇帝としての王冠を授けている。 ここからのちにとして知られることになる王位の系譜が始まる。 これ以降、が自分自身で王冠をかぶるまで、教皇が王冠を授ける権威を持ち、世俗の王位はカトリック教会によって承認されるものであるという伝統がつくられていく。 先にのべた教皇領はの成立するまで存続した。 教皇領を保持することで、教皇は領土を持つ世俗の君主の一人というだけでなく、全キリスト教徒の長という聖俗にわたる強力な権威を持つことになった。 淫蕩の限りをつくしたことで悪名高いや、軍事的才能を備えて数度の戦役を闘ったなどが政治的な権威を行使した教皇の代表格といえよう。 またで知られるやなどはの影響下において教会改革を志した宗教的な権威者として後代に知られている。 中世の教皇たちは回勅によって政治的な影響力を行使したが、世界史上で特に有名な回勅としての侵攻の根拠となった『ラウダビリテル』()、世界をとで分割するのもととなった『インテル・チェテラス』()、を破門し、家臣の臣従の義務を解いた『』()、を定めた『グラビッシマス』()などがある。 現代のとして、教皇の外国公式訪問の際には、相手国のが教皇の宿泊先に出向いて挨拶を行う。 教皇位をめぐる議論 [ ] カトリック教会内 [ ] の中において「教皇の権威」は教義として宣言されたものである以上、その職務の権威を否定することは認められない。 では「カトリック教会において、裁治権を認めないものは分離される」というアナテマがはっきりと示された(ただ、教皇の地位の厳密な位置づけについて議論することは認められている)。 第1バチカン公会議で採択された・に反対するグループは、を形成した。 詳細は「」を参照 カトリック教会外からの異論 [ ] カトリック教会の外でははっきりとローマ教皇の権威については疑義が示されることがある。 その種の疑義をおおまかにまとめると次のようになる。 ローマ教皇を認めつつも、全世界の司教たちの中における首位権への疑問• 教皇制度そのものへの疑問 は『パーチェム・イン・テリス』において、、、、などの諸教会は「」という概念を共通に持っているため、ローマ司教たる教皇の持つ栄誉ある地位を多かれ少なかれ認めていると述べている(ここでいう「栄誉ある地位」というのは決して首位権とイコールではない)。 しかしこの箇所で言及されている諸は、を除き、ローマ教皇が他の司教を超えるの権威を継承しているということを認めていないし、ペトロがローマに行ったということすら認めないものもある。 教皇の首位権は、司教座としてのローマがの首都であったことにも由来することはの教令第28条でも明示されているため、教皇が全教会に対し教導権を発揮することを認めないのである。 また、彼らは第1バチカン公会議をとして認めておらず、結果的にそこで採択された教皇不可謬に関する宣言も無効である。 にとっては「使徒座の継承」という考え方すら受け入れがたいものである。 このような人々から見れば、名誉的なものであれ、教会裁治権上のものであれ、聖書に書かれていない以上、ペトロの首位権というものはありえない。 また教皇権がやなどの世俗の権力と複雑にかかわってきたことや、統一成立時の接収のあと長く続いた政府との確執などが教皇権というものへの歴史的な疑問点となっている。 西欧においては教皇権のありかたに対する不満がへいたるひとつの底流となった。 カトリック教会から離れた教派においては教皇の地位についての見解はさまざまで、単に全教会に対する統治権を認めないものから、に現れるであると言う極端なものまである。 ほかに出身のやのような堕落した教皇の例をあげて、堕落した人間がこのような権威を持っていたことに疑問符をつけるものもある。 そのような批判者によれば全智全能の神が、このような堕落した人間に聖なる権威を与えるはずがなく、「堕落した教皇」というものの存在することこそ教皇位が神の意思に由来するものでないことの証左であるという。 これに対する反論としては、神が堕落した人間にすら大きな地位を与えることがあることの証明として、の王たちや、使徒の一人でありながらイエスを裏切ったをあげる意見もある。 またどれほど堕落した教皇であっても教皇制度そのものが消滅しなかったことを教皇権が神に守られたものであることの証明であるというものもある。 正教会からの異論 [ ] においては、ローマ・カトリックが主張するようなローマ教皇( ロマの「パパ」)の権限は認められない。 正教会において現在名誉上の首位にあるのは、「」の称号を持つであるが、コンスタンディヌーポリ総主教も絶対的な権限を全正教会に行使している訳ではなく、各地にがある。 なお、では教皇 Papa に相当する訳語として" 「パパ」"(鉤括弧を含めて一語)という表記が用いられ、「教皇」の表記はあまり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。 正教会からはローマ・カトリックの教会論に対して以下のような異論がある。 ローマ・カトリックは、ローマ教皇の道徳的な権威や調停といった穏やかな権限を、絶対的な権限に変えている。 ローマ・カトリックにおいては、ローマ教皇の首位は全教会の「原理・根源」とされ(への回勅:1864年9月16日)ているが、正教会においては、教会の唯一の「原理・根源」は以外に考えられない。 またの後継という観点については、正教会の教会論では全てのがペトロを受け継ぐものである。 これについては、全ての主教は自分の教会および他の全ての教会においてペトロの座にあるとするの考えが参照される。 またによる以下の指摘にも言及される。 教皇はではないし、使徒の統率者でもない。 使徒が他の使徒をした事は無い。 司牧者や学者を叙聖したのみである。 ペトロは全教会の師であるが、教皇はローマの()に過ぎない。 ペトロはアンティオキアやアレクサンドリアで主教を叙聖(叙階)する事が出来たが、ローマ主教にはそれは出来ない。 ペトロはローマの主教を叙聖(叙階)したが、教皇が教皇をペトロの後継者に任じる事は出来ない。 ただし、古代から現代に至るまでは教皇の首位性と地位についてローマカトリック側と見解を異にしてきた一方で、以前のローマ教皇で聖人となっていた者については正教会も崇敬している(例:、など)。 称号の変遷とその他の「教皇」 [ ] ()は、1978年以来、4代にわたって教皇位を主張している(2018年現在)。 これは当時の東方教会(領)と西方教会(領)のそれぞれ中心地であった。 一方、中世以降のにおいて、教皇は「ローマ司教」にしか使用せず、単に「教皇(Papa)」と呼べばそれはローマ教皇を意味する。 なおカトリックでは「」()はかつてローマ教皇のみの敬称であったが、以降、上記のアレクサンドリア教皇を含む東方教会のなどの高位聖職者にも用いている。 カトリック教会の公式な認定と関係なく教皇位を宣言する者を、という。 通常、対立教皇が生まれる背景には、カトリック教会内の論争や特定の教皇の正統性をめぐって紛糾する事態が存在する()。 対立教皇が多発した中世において、正統な教皇以外に教皇を名乗る人物が現れるのは、宗教だけでなく政治をもまきこむ大問題であった。 カトリック教会内で大きな影響力を持つの総長は、かつて「黒い教皇」と呼ばれることがあった。 これは士が質素な黒いスータンを着ていたことと、教皇は常に白い服を着ることに由来している。 教皇庁の一機関であるの長官(枢機卿)は「赤い教皇」と呼ばれることがある。 この職にあるものはアジアとアフリカ全域の教会の責任者であるため、教皇に匹敵するほどの地位だという意味である。 なお、「赤」は枢機卿の衣の色である。 日本語での呼称 [ ] 日本カトリック教会の呼称 [ ] 現在、日本のカトリック教会の公式な表記では、「教皇」が用いられている。 信徒の間では、親しみを込めた敬称として「パパ様」という呼び方が使われることがある。 日本のカトリック教会の中央団体であるは、のの来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。 このとき、東京にある「ローマ法王庁大使館」においてもこれにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称のまま現在へ至っているとしている。 明治期日本のカトリック教会では「」の訳語を用いた用例が見られる (なお、大正期以降の文献には「教皇」の語が見られる )。 また、現在でも典礼の中では、現役の教皇を「私たちの教父」と呼ぶ慣習がある。 日本政府による呼称 [ ] 官報や外務省の文書では、戦前から長らく基本的には「法王」の語が用いられていたが、教皇が使用されないわけではなかった。 の長に対しては「コプト教皇」の呼称を用いている。 2018年には、所属衆議院議員のが衆議院において「教皇」に変更するべきではないかと質問を行っている。 これを受けて外務省はバチカンとローマ法王庁大使館に問い合わせを行ったが、いずれも変更を求めていないという回答を得ている。 外務大臣(当時)はへ変更を行った事例のように、変更の要求があった場合にはしっかりと対応していくと答弁していた。 11月23日から教皇が日本を訪問することを受け、政府は11月20日に「教皇」への呼称変更を発表した。 マスメディアの呼称 [ ] では、「ローマ法王」「法王」が慣用的に使われ、一般に定着しているとして原則的には「法王」の呼称を用いるとしていた が、日本のカトリック関係者を中心に「教皇」と呼ばれていること、2019年11月22日の教皇フランシスコの訪日にあわせて日本政府が「教皇」に呼称変更したことを踏まえ、「ローマ教皇」の呼称に変更した。 また、、、、、といった主要紙、、も「ローマ教皇」の呼称に表記を変更した。 各国語での呼称 [ ] この節のが望まれています。 中国語圏では「」という訳語が使われる。 韓国語では「(敎皇、キョファン)」である。 英語では「The pope」、または「father」。 「supreme pontiff」 : pontifex maximus とも。 その他 [ ]• 教皇の公用車の一つメルセデス・ベンツGクラスを改造したものは「教皇車」()と呼ばれる。 教皇名は自由に選ぶことはできるが、ペトロの名前を選んだものはいない。 対立教皇を除き、最も多く選ばれた教皇名は「(ヨハネ)」の22人である。 ついで「(グレゴリオ)」と「(ベネディクト)」が16人ずつとなっている。 かつては、歴史の混乱で「17世」以降がひとつ多くカウントされていた。 その後この過ちは修正されて「17世」から「20世」はそれぞれ代数が1つずつ若返って「16世」から「19世」となったが、21世以降の3名は修正されないまま残ってしまっている。 よって「」が実在しないため、現時点で最後に「ヨハネス」を名乗った教皇は(ヨハネスとしては22代目)となっている。 「ヨハネス」を複合名に使用して名乗った教皇が2人いる(と)ので、これをカウントに入れると「ヨハネス」を名乗った教皇は合計24人となる。 完全なオリジナルの教皇名を名乗った最新の教皇は、2013年3月に選出されたである。 それまでは長らくがその記録の保持者だった。 もっとも若く教皇になったのは、18歳のである。 1295年以降でもっとも高齢で教皇に選出されたのは、79歳のである。 1295年以降でもっとも長寿だった教皇は、93歳で亡くなったである。 史実で確認される範囲で在任期間がもっとも長かったのは、31年7ヶ月の( - )である。 在位期間がもっとも短かったのはで、僅か13日( - )である。 これは選出されて間もなくマラリアに罹り、教皇着座式すら出来ずに病没したため。 2月12日に、総主教と約1000年ぶりの歴史的会談 を行った。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『』(、)728頁および編『』(、)649頁参照。 ラテン語: Sancta Sedes. ラテン語: Sedes Apostolica. ラベル「使徒座」『』OnlineDictionary。 2013年2月11日. 2013年2月11日閲覧。 2013年2月11日. 2013年2月11日閲覧。 4-560-05607-2• は、で「父」を意味する幼児語に由来する。 [ ]• サーチ. カトリック南山教会広報委員会. 2019年11月26日閲覧。 2019年10月9日. 2019年11月27日閲覧。 2019年11月22日. 2019年11月23日閲覧。 「羅馬教皇使節館記氏名羅馬教皇使節ポール・マレラ」「」 Ref. B15100606600• 「」 Ref. A03024608400• 「は、十一月二十日にヴァチカン市国を訪問し、教皇から謁見をたまわった。 池田総理大臣から、歴代教皇が、日本の直面する諸問題に対し(後略)」 - 昭和38年8月• , , 会見・発表・広報, 2019年11月20日 , 2019年11月21日閲覧。 2019年11月20日. 2019年11月21日閲覧。 2013年2月27日閲覧。 NHKニュース. 2019年11月22日. 2019年11月22日閲覧。 2019年11月22日. 2019年11月22日閲覧。 Oxford University Press. 2013年2月18日閲覧。 Education. yahoo. com. 2011年6月6日時点のよりアーカイブ。 2010年8月11日閲覧。 AFP通信、2016年2月13日 参考文献 [ ]• 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)• 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 -67? -78? -91?

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ローマ教皇、復活祭ミサで「世界の連帯」呼びかけ ネットで中継

ローマ 法王 ローマ 教皇

・ページ内の見だしリスト• 4 参考 教皇か法王か 現在は、高校世界史では「教皇」、一般的には「法王」と言われることが多いが、ラテン語では Papa 、英語では Pope 、つまり「お父さん」と同じ意味。 カトリック教会の正式な日本語表記は、現在は「教皇」を使っている。 教科書もそれにしたがっているのであろう。 もっとも、1942年にバチカン市国が日本と国交を開いたとき、外務省の正式文書では「ローマ法王庁」であったため、今でも日本政府は「法王」、「法王庁」と言っており、教会側もそれを認めているようなので、どちらが間違いということはない。 NewS 政府、「ローマ教皇」に呼称を変更 2019年11月20日、日本国政府は、ローマ・カトリック教会の フランシスコ法王の来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。 理由について外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためだと説明している。 これまでは東京にある「ローマ法王庁大使館」に合わせるかたちで法王の呼称を用いてきたという。 カトリック中央協議会のホームページによると、日本とバチカンが外交関係を樹立した当時の定訳が「法王」だったため、「法王庁大使館」になったという。 テレビ・新聞もフランシスコの来日を機に一斉に「ローマ教皇」に変更しましたが、古い呼称として「法王」もかなり残ることになるでしょう。 カトリック教会側は、早くから「教皇」・「教皇庁」と改称しようとしたのは、「王」より「皇」の方が格が高いという意識があるようです。 むしろカトリック側から日本政府に教皇・教皇庁への改称を働きかけていたが、日本政府が認めてこなかったと言うことのようです。 < の項による> 1 ローマ教皇権の成立 三位一体説とローマ教会の権威 西ローマ帝国滅亡後、アリウス派を信仰するゲルマン諸国が各地に成立し、ローマ教会は危機に陥った。 さらに東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会との間の教会の首位座をめぐる争いでも劣勢に立たされた。 にはローマ司教がにおいて、をとすることを強く主張して、それが決議されたため、ローマ教会の権威は高まった。 またレオ1世は翌年、ローマに侵攻したフン人のを説得して撤退させたため、ローマを救ったとして信望を集めた。 これらの結果、ローマ教会の権威が高まり、レオ1世は実質的な最初の教皇と言うことが出来る。 フランク王国との提携と東方教会からの自立 グレゴリウス1世 6世紀の末、にローマ教皇となったは、厳しい修道院での信仰生活によって権威を高め、またゲルマン人への布教に活路を見いだそうとにベネディクト派の修道士をに派遣した。 聖像禁止令とピピンの寄進 さらにのビザンツ皇帝レオン3世が出したに始まるでビザンツ教会との対立が激しくなると、ゲルマン人の中で唯一ローマ教会に帰依していたフランクとの結びつきを強めようとした。 751年ののの即位を承認した見返りとして、にでラヴェンナ地方などを得てを成立させ、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となる基盤を築いた。 フランク王国との結びつき にローマ教皇がフランク王国のにローマ皇帝の冠を授けたによって、ローマカトリック教会はフランク王国を保護者としてビザンツ皇帝及びコンスタンティノープル教会から完全に自立することに成功した。 両者はに正式に分離を宣言、し、現在に至っている。 ローマ教皇権力の動揺 9~10世紀前半はフランク王国の分裂やノルマン人・マジャール人の侵攻などでヨーロッパは再び分裂と停滞の時代になったが、この間教会と修道院はかえって社会不安の中で勢力を増し、聖職者のを作りあげ、ローマ教皇はその頂点として西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。 に東フランクのがマジャール人を撃退、ローマ教皇は彼に西ローマ皇帝の冠を授け()た。 これがの始まりであり(実際にその名称が定着するのは13世紀だが)、は領内の教会を聖職者任命によって統制するをとり、またローマ支配を常に意図してを展開することとなる。 中世初期のローマ教皇と世俗権力である皇帝との関係は次のように説明するのが妥当であろう。 引用 ローマ法王という宗教上の普遍的権威は、ただこれに対応する皇帝権という世俗的は普遍的権威の存在をまってだけ、その普公的(カトリック)な使命を果たし得たことは、中世史の数々の事例が証するところである。 さもなければローマ法王の座は、つねに、ローマ市ないしはイタリアの狭隘な地方的権力闘争の焦点となり、その実質ははなはだしくその名称を裏切るのである。 このような意味で、当時ローマ法王権は、8世紀初めに起こった聖像破壊運動をめぐって、東ローマ皇帝と争っており、さらに他方では、法王の苦境を利して中部イタリアに制覇しようとする北イタリア、ロンバルディアのランゴバルド族と対立していたことは、十分記憶されねばならぬところである。 法王権はこの苦境を打開するため北方のフランク王国と提携し、そのカロリング王朝の創立をたすけ、みずからもその保護に頼っていた。 ・・・ <堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p. 63-64、再版2013 中公文庫> ローマ教皇の堕落(9~10世紀) 9世紀から10世紀にかけて、フランク王国の分裂という政治的混乱を背景として、俗界の権力の干渉を受けて地位が動揺したローマ教皇の中には、堕落した人物が目立っている。 このローマ教皇の退廃期ともいえる時期の実情は、高校の世界史教科書では詳しくは出てこないが、このような事態があってはじめてクリュニー修道院の修道院運動や、グレゴリウス7世の改革、が行われることになるので、目を向けないわけには行けない。 ややゴシップめいたことだが、次のようなことがあった。 Episode 屍体公会議 フォルモスス(在位891~896)はドイツ王の支援で教皇となったが、その死後、対立していたローマの貴族に推されて教皇となったステファヌス6世は墓からフォルモススの遺骸をひきだして公会議をひらき(屍体公会議と言われた)、前教皇の聖職を剥奪して俗人に戻し、彼が教皇として行ったすべての行為を否認して、祝福を与えた指を切断、さらに遺骸を数日間放置して、最後にはティベル川に投げ込んだ。 Episode 殺人法王とポルノクラシー さらにその後に現れたセルギウス3世(在位904~911)は二人の前任者を殺害して教皇になった。 そのセルギウス3世はなんと教皇庁内に引き込んだ女マロツィアとの間に子供をもうけ、さらにマロツィアは教皇庁で実権をふるい、その子がまた教皇になるということがあった。 このように堕落した10世紀前半の教皇庁のありかたをポルノクラシー(婦妾政治、娼婦政治)と言っている。 マロツィアはやがてローマ市の事実上の支配者となり、一族で市の要職を壟断したばかりでなく、何人もの法王を自由に廃立し、しかも反抗する法王を暗殺してはばからなかった。 この婦妾政治(ポルノクラシー)は、マロツィアとセルギウス3世の間に生まれた男子がヨハンネス11世として法王座にあったとき、マロツィアが最初の夫スポレト侯によってえた長子アルベリクスが勢力をえ、法王とマロツィアその人を逮捕投獄し、ついで殺害することによって終わったのである。 <堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書、再版2013 中公文庫> この他、962年にを行ったローマ教皇も、17歳で教皇となり、教皇庁でみだらな生活を送ったことで、27歳で結局オットーによって廃位されている。 修道院運動と叙任権闘争 11世紀後半にを中心にして始まった新たなの影響を強く受けて登場したは、から「 グレゴリウス改革」といわれる教会改革を推進し、と聖職者の妻帯を厳しく非難して粛正に努めた。 その一環として、それまでなど世俗権力に握られていた聖職者の叙任権を教皇が奪還すべくを展開した。 カノッサの屈辱 グレゴリウス7世は、聖職叙任権の教皇への移譲を拒否した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。 、ハインリヒ4世がグレゴリウス7世をカノッサに訪れて謝罪し、破門を解かれた事件は「」といわれ、ローマ教皇権が世俗の権力を圧倒した象徴的な出来事であった。 ハインリヒ4世は態勢を整え、グレゴリウス7世に反撃し、一時教皇はローマを追われる状態となったが、11世紀末にがローマに帰還した。 十字軍運動 はにを開催、を提唱し、ヨーロッパ各国の国王、諸侯、都市がそれに従ったことによって実行され、に聖地の奪還に一時成功したことによって教皇権力が西ヨーロッパ世界の世俗権力をもまとめあげることとなった。 ローマ教皇庁が文書の上に現れるのも1098年が最初である。 ヴォルムス協約 当初の十字軍の聖地回復が成功したこともあって教皇権威が高まり、には神聖ローマ皇帝とローマ教皇によるが成立して、皇帝がドイツにおいては教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は一応の終結をみた。 ローマ教皇軍の勝利 12世紀にはのの皇帝が北イタリア進出を目指したのに対して、ローマ教皇アレクサンドル3世は北イタリア諸都市のと提携して戦い、のでは皇帝軍を破っている。 ローマ教皇権の最盛期 13世紀、時代後半のローマ教皇は絶大な権利と権力を持つこととなる。 その頂点にあったは、「 教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのやイギリスのなど)を破門にするなどによって抑え込み、ヨーロッパに君臨した。 また、(在位1243~54年)は、シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝と対立して破門にし、おりからのの率いるモンゴル帝国軍にキリスト教軍がで敗れたことを受けて、初めてのモンゴルへの使者を派遣した。 しかし、広大なを支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。 13世紀末には十字軍運動も結局、聖地奪還が出来ないまま終結し、教皇の権威は大きく揺らいできた。 アナーニ事件から大分裂へ のでは教皇はフランス王に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらにからはフランス王によって教皇がに移されるという「」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。 ローマ教皇がローマに戻ってからも、にローマとアヴィニヨンに教皇が同時に二人(さらに末期には三人)存在するという(~1417年)という事態となった。 そのような中、イギリスのやベーメンののような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。 それに対してローマ教会は教皇の権威を守ろうとして、のでウィクリフとフスを異端として弾圧したが、同時に教皇よりも公会議の決定が重要であるという決議をするに至った。 ローマ教皇の権威低下はそのヨーロッパ国際政治での調停力の低下となって現れ、1339~1453年のが起こった。 その間のの流行、さらに東方で強まってきたの圧力などがローマ教皇とローマ教会の権威の動揺をさらに深めることとなった。 ルネサンス・宗教改革期の教皇 さらにの風潮がひろがって、のような人文学者なども教会の形骸化した信仰のあり方を批判するようになった。 事実、ルネサンス期のローマ教皇には世俗の権力と密着して腐敗堕落するものが出現しており、ボルジア家出身の(在位1492~1503年)などがその悪行で知られている。 しかしその権威はまだ高く、この教皇はおりからコロンブスの新大陸発見から始まった大航海時代でのポルトガルとスペインの勢力圏を巡る調停を行い1493年にを定めている。 次の(在位1503~1513年)はの改修を開始し、ブラマンテやにその仕事を与えた。 次の(在位1513~1521年)はメディチ家出身で、の修築費用の捻出のため、ドイツに対する贖宥状の発行したことから、1517年にによるが始まった。 反宗教改革(対抗宗教改革) ルターとカルヴァンによる宗教改革が始まり、新教()勢力が大きくなると、ローマ教皇はヨーロッパでの絶対的権力を失い、中部イタリアの教皇領を支配する一君主という存在となった。 そのような教皇の権威の低落を嘆き、教皇への服従というカトリック教会の信仰の根幹を再建しようとしたのが、を中心としたの運動(対抗宗教改革)であった。 その運動もあって力を盛り返し、ヨーロッパではスペイン・フランスや南ドイツ、ポーランドなどで影響力を強め、さらに新しい布教地としてラテンアメリカやフィリピンなどを対象に熱心なによる伝道が行われ、勢力を盛り返した。 1534年にを公認したローマ教皇は、1542年にはを設置しての取り締まりを強化し、さらに1545年から63年までを召集し、カトリックの教義と教皇の権威の確立を図った。 その一方、パウルス3世は晩年のにシスティナ礼拝堂のを描かせている。 16世紀後半には、ピウス5世(1570年にイギリスのを破門)、グレゴリウス13世(1582年、を制定)、シクストゥス5世(ローマ教皇庁の改革)の「改革教皇」といわれる三人の改革派教皇が現れた。 宗教戦争 しかし、ヨーロッパの大勢は、フランス国内の新旧両派の激しい内戦である(1562~98)、旧教国スペインから新教国オランダが独立を目指して戦った(1568~1609)、そして17世紀前半のドイツの内戦にヨーロッパの新旧両派の国が介入した(1618~1648)というがあいつぎ、1648年ので信仰の自由の最終的承認とともに体制が成立したことによって、ローマ教皇の権威は相対的に低下し、さらに最大の旧教国であったによって教皇の国際政治上の力はほぼ消滅した。 またフランスは旧教国であったが、伝統的にローマ教皇とは分離した国王の権威を重視するが定着していった。 フランス革命とローマ教皇 1789年、が勃発すると、革命前ののもとで教会によって抑圧、収奪されていた民衆の反カトリック教会感情を背景に、革命政権によって教会領が没収され、カトリック世界は危機を迎えた。 特にジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて、フランス政府とローマ教皇は断絶した。 次の総裁政府のもとで、革命亡命のために4月にを開始したは北イタリアを軍事的に優位に立ち、1798年には軍隊をローマに派遣して、教皇 ピウス6世に退位を迫りの樹立を宣言した。 ナポレオンとローマ教皇 しかし、革命を収束させたは、権力の維持・強化を図り、ローマ教会の関係修復を図り、にローマ教皇ピウス7世との間で宗教和約()を成立させた。 このように旧体制と妥協を成立させたナポレオンは1804年にとして皇帝となった。 翌年、ナポレオンはイタリア共和国を王国に改め自ら国王に就任、ピエモンテ、ヴェネツィア、トスカーナなどを併合し、さらに1808年2月にはフランス兵をローマに進駐させ、翌年9月にはついいローマ教皇領も併合してしまった。 かつてナポレオンの戴冠式を行った教皇 ピウス7世(在位1800~23)は、ローマ教皇領を失い、フランス軍の囚われの身となり、パリ近郊のフォンテーヌブローに幽閉されてしまった。 ようやくナポレオンが没落し、1815年、ウィーン会議でフランス革命以前のヨーロッパの秩序が回復されることとなり、ローマ教皇領も復活、教皇もローマに帰還した。 イタリア統一とローマ教皇 ローマ教皇は中世以来のローマ教皇領を中部イタリアで回復し、教皇国家といわれる独立した権力を持っていた。 19世紀のウィーン体制の時代、全ヨーロッパで自由主義と民族主義が台頭すると、イタリアでも国民的な統一を目指す運動(リソルジメント)が盛んになり、教会国家の存在が大きな障害となってきた。 ローマ共和国 教皇 ピウス9世(在位1846~78)は初め改革派教皇と期待され、教会国家でも憲法制定の動きも出てきたが、オーストリアから改革を否定されると次第に反動的となった。 それに対して、ヨーロッパで燃え上がったの余波がローマにも及ぶと、初めに教皇はローマを脱出、ローマ市民が蜂起しを成立させた。 この時はマッツィーニやガリバルディも共和国に参加し、革命的な変化が起こりかけたが、フランスのルイ=ナポレオンがローマ教皇を支援することを表明して軍事介入し、共和国軍は壊滅した。 それによってピウス9世はローマに復帰した。 イタリア王国の成立 19世紀後半、イタリア統一の主導権を握ったのは、フランスの支援を取りつけてオーストリアと戦い、北イタリアの解放に乗り出した。 このはナポレオン3世がオーストリアとの講和に変心したため挫折したが、義勇兵を率いたがと征服に成功、それらの征服地をサルデーニャ王国に献上することによってイタリア統一は急速に進み、、(都はトリノ)が成立した。 しかし、ローマ教皇領とヴェネツィアはまだイタリア王国には含まれなかった。 ヴァチカンの囚人・ローマ問題 イタリア王国はローマ教皇領の併合を進めようとしたが、世俗の国王への従属を拒否する教皇はそれに応じず、カトリックの擁護者をもって任じるナポレオン3世の派遣したフランス軍に守られていた。 ところがのためフランス軍が撤退した隙を乗じて、9月、イタリア王国軍が、住民投票の結果、ローマはイタリア王国に併合されることが決まった。 翌7月にはローマはイタリア王国の首都となり、ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められる形となり、ピウス9世は自らを「ヴァチカンの囚人」と称した。 イタリア王国とヴァチカンの関係は悪化し、「 ローマ問題」(イタリア語で分裂を意味する「ディシディオ」といわれた)として続くこととなった。 ピウス9世はローマ教皇在任期間が最長となる中、ヴァティカンで宗教会議を開催、「教皇無誤謬宣言」を出すなど反動色を強め、70年代にはドイツ帝国のとはで激しく対立した。 ムッソリーニとのラテラノ条約 第一次世界大戦後の1922年、ローマ進軍を行って政権を獲得したは、独裁体制を安定させようとしてカトリック教会との和解を図り、1929年ローマ教皇ピウス11世との間でを締結し、ローマ教皇領に対する賠償金の支払いと、一個の主権国家としてが独立することを認めた。 これによって「ローマ問題」は解決し、サン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカンは、世界で最も小さい主権国家として独立した。 現代のローマ教皇 カトリック信者は現在では約10億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。 1978年にローマ教皇となった ヨハネ=パウロ2世は、456年ぶりにイタリア人ではなく、しかもポーランド人としてははじめて教皇に選出された。 ヨハネ=パウロ2世は東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送り続け、2005年に死去し、ベネディクト16世(ドイツ人)が継承した。 ベネディクト16世は、2013年に719年ぶりに生前退位(生存しているうちに退位すること)し、新教皇フランシスコ(アルゼンチン人)が選出された。 大変珍しい生前退位となった裏には、聖職者の度重なるスキャンダル(聖職者による性的虐待事件など)があったのではないかと取りざたされている。 Episode 教皇選出は根比べ? ローマ教皇の地位は世襲はあり得ず、聖職の最高位として信仰の厚いものから選ばれたが、11世紀以降はその諮問機関である枢機卿(Cardinal)の秘密会で選出されることが原則となった。 教皇を選出する枢機卿の秘密会議をコンクラーベという(もちろん日本語ではなくラテン語で)。 枢機卿(カージナル)は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。 1179年から教皇選挙権は枢機卿だけが持つ、とされたので教皇に次いで最も重要な役職であり、彼らがかぶる赤い帽子はその権威の象徴となっている。 その人数は時代によって違うが現在は164名(2003年9月現在)である。 枢機卿は教皇が選任する。 教皇選出の会議のコンクラーベという言葉は、「鍵で」を意味し、その選出会場が外部から一切干渉されない秘密会であるところからきている。 選出は現在では参加した枢機卿の中から多数決で選ばれることになっており、当選には3分の2プラス1票が必要である。 当選が決まると投票用紙をストーブで焼き、しめった藁を混ぜて煙が黒ならば未決、白ならば選出された印とされる。 <小林珍雄『法王庁』岩波新書による> コンクラーベの実際 2005年4月2日、26年半にわたり教皇であったヨハネ=パウロ2世が84歳で死去した。 ヴァチカンのシスティナ大聖堂で4月18日から次期教皇の選出のためのコンクラーベが開催された。 引用 ラテン語が語源で「カギのかかった」という意味があるコンクラーベは、13世紀、クレメンス4世の死後にローマ郊外で選挙をした際、2年以上たっても決まらないことに怒った市民が会場にカギをかけ、中の者たちにパンと水だけを与えて缶詰にしたことが語源とされている。 ・・・外から遮断された環境で行う伝統は、現在も続いている。 枢機卿らが携帯電話はもちろん、テレビ、ラジオ、新聞などに接することは一切禁じられている。 枢機卿らが宿泊するバチカン内のサンタマルタ館は電話回線やインターネットのアクセスも切られた。 35-37> このときコンクラーベに参加した投票権を持つ枢機卿は満80歳未満に限られ、世界52ヵ国の117名のうち、欠席を除く115名だった(日本人枢機卿2名も参加した)。 焦点は前任者がポーランド人だったので今度はイタリア人になるのではないか、という点と、改革派・保守派のいずれの人物か、ということだった。 夕方、第1回の投票を知らせる煙突の煙は灰色で、白黒見分けがつかず報道陣も混乱したが、結局黒で1階では決まらなかった。 翌日の夕方、白色の煙がでて、決定したことが知らされた。 午後6時40分、大聖堂中央のバルコニーから姿を現したのは、新教皇に選ばれたドイツ人のヨーゼフ=ラツィンガー枢機卿で、彼が新教皇ベネティクト16世となった。 新教皇は前任者を忠実に補佐した人物で、保守派とみられていた。 ヨハネ=パウロ2世とベネティクト16世 前任者ヨハネ=パウロ2世は出身で、を後押してポーランド民主化に大きな役割を果たしたり、異教徒との宥和にも熱心で、世界中を飛び回って平和を説き、にも反対したことで知られた国際派だったが、ことカトリック信仰に関しては超保守派に属し、人工中絶、同性婚などには絶対反対の立場を貫いた。 ベネティクト16世もその保守的姿勢は変わっていない。 しかし、異教徒に対する寛容の点ではヨハネ=パウロ2世と違っていて、就任直後に出身地のドイツで説教したときに、ムハンマドを非難しイスラーム教徒をテロと同義に見なすととれる発言をして、アラブ諸国から激しい非難が起こった。 新教皇は弁解に努め、トルコを訪問するなど関係修復をせまられることとなった。 ローマ教皇の辞任 2013年2月11日、世界中がベネディクト16世の言葉に驚いた。 13世紀末以来、ローマ教皇は死ぬまでその地位にある(つまり終身)ことが通例であったにもかかわらず、生前に辞任すると発表したのだ。 理由は高齢(87歳)のため、心身共に教皇としての任務に堪えられないということであった。 ローマ教皇が自由意志で自らその地位を去ることなど考えられなかったカトリック信者、のみならず世界中に驚きの声が起こった。 教皇が生前に、自分の意志で辞任したのは1294年のケレスティヌス5世以来のことだという。 ケレスティヌス5世というのは教皇の無力さを自覚し、就任1年もたたずに自ら退位した。 次の教皇は強気で知られたで、彼は1303年のでフランス王から屈辱を受け、憤死した。 また自由意志ではない辞任の例は、を終わらせるために1414年に召集されたによって、三人の教皇の同時退任を決めたとき、ローマで教皇であったグレゴリウス12世はその意向を受け容れて自らの意志という形で1415年に退位した例である。 このときピサの教皇ヨハネス23世とアヴィニヨンのベネディクトゥス13世は解任という形をとったが、ベネディクトゥスは解任を拒否し、スペインに逃れて教皇と称しつづけた。 ローマでは新たにマルティヌス5世が教皇に選ばれ、それ以後のローマ教皇はいずれもその死をもって終わるのが例になった。 教皇辞任の背景 このようにローマ教皇の歴史のなかでも特異なケースであるので、ベネディクト16世の突然の辞任表明には世界中が驚いたのだった。 辞任(カトリック教会ではあくまで退任ではなく辞任といっている)後のベネディクトは実権の伴わない「名誉教皇」となったと報じられているが、公式にはその理由は高齢があげられるだけで、その本当の理由についていろいろな憶測を呼んでいる。 2009年頃から各地でカトリック聖職者による性的虐待が明らかにされたり、教皇庁がマネーロンダリングにかかわって蓄財しているという疑惑などが表面化したことも、彼が教皇の職務を重圧と考えるようになった背景にあるのは考えられることだ。 NewS 新教皇フランシスコ 2013年、新たに教皇(第266代)に選出されたフランシスコである。 教皇としてはこの名を名のった人物はいないが、「1世」をつける必要は、いまのところはない。 彼はアルゼンチンのブエノスアイレス出身(イタリア系アルゼンチン人)。 初めてのアメリカ大陸出身者で教皇となった。 また意外だが修道士から教皇になったのも初めてである。 就任時、すでに76歳という高齢になっていたが、貧困や環境などの社会問題に関心が深く、その行動力が評価されている一方、人工中絶、同性婚などには前教皇と同じく保守的な立場を取っており、様々な問題を抱える教皇庁の変化に注目が集まっている。 印 刷 印刷画面へ 書籍案内 鈴木宣明 『ローマ教皇史』 教育社歴史新書 1976年のヨハネ=パウロ2世の登場まで。 面白みには欠けるが、記述は上智大教授の教会史専門家らしく正確。 鈴木宣明 『ローマ教皇史』 2019 ちくま学芸文庫 2014年に死去した鈴木宣明氏の前掲書の新装版と思われます。 上智大名誉教授にしてイエズス会司祭であった氏の著作は、ローマ教皇について理解する上で最良の教養書ではないでしょうか。 オシヴォロ他/鈴木宣明訳 『ローマ教皇』 双書知の再発見 1997 創元社 堀米庸三 『正統と異端』 初版 1964 中公新書 再刊 2013 中公文庫 竹下節子 『ローマ法王』 2005 中公文庫 265代ベネティクトゥスまで。 読み物として気軽に読める。 ヨハネ=パウロ2世についても詳しい情報がある。 ヨハネ=パウロ2世からベネディクト16世紀への交替を詳しくレポート。 またローマ教皇の歴史を概観している部分も読みやすい。 藤代泰三 『キリスト教史』 初刊 1979/再刊 2017 講談社学術文庫 文庫本で700頁超、まだ通読していないが、キリスト教史の日本をもふくめての全体像をつかむのに便利そう。 著者は同志社大の教授だった神学者で佐藤慶氏の師。

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・ページ内の見だしリスト• 4 参考 教皇か法王か 現在は、高校世界史では「教皇」、一般的には「法王」と言われることが多いが、ラテン語では Papa 、英語では Pope 、つまり「お父さん」と同じ意味。 カトリック教会の正式な日本語表記は、現在は「教皇」を使っている。 教科書もそれにしたがっているのであろう。 もっとも、1942年にバチカン市国が日本と国交を開いたとき、外務省の正式文書では「ローマ法王庁」であったため、今でも日本政府は「法王」、「法王庁」と言っており、教会側もそれを認めているようなので、どちらが間違いということはない。 NewS 政府、「ローマ教皇」に呼称を変更 2019年11月20日、日本国政府は、ローマ・カトリック教会の フランシスコ法王の来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。 理由について外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためだと説明している。 これまでは東京にある「ローマ法王庁大使館」に合わせるかたちで法王の呼称を用いてきたという。 カトリック中央協議会のホームページによると、日本とバチカンが外交関係を樹立した当時の定訳が「法王」だったため、「法王庁大使館」になったという。 テレビ・新聞もフランシスコの来日を機に一斉に「ローマ教皇」に変更しましたが、古い呼称として「法王」もかなり残ることになるでしょう。 カトリック教会側は、早くから「教皇」・「教皇庁」と改称しようとしたのは、「王」より「皇」の方が格が高いという意識があるようです。 むしろカトリック側から日本政府に教皇・教皇庁への改称を働きかけていたが、日本政府が認めてこなかったと言うことのようです。 < の項による> 1 ローマ教皇権の成立 三位一体説とローマ教会の権威 西ローマ帝国滅亡後、アリウス派を信仰するゲルマン諸国が各地に成立し、ローマ教会は危機に陥った。 さらに東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会との間の教会の首位座をめぐる争いでも劣勢に立たされた。 にはローマ司教がにおいて、をとすることを強く主張して、それが決議されたため、ローマ教会の権威は高まった。 またレオ1世は翌年、ローマに侵攻したフン人のを説得して撤退させたため、ローマを救ったとして信望を集めた。 これらの結果、ローマ教会の権威が高まり、レオ1世は実質的な最初の教皇と言うことが出来る。 フランク王国との提携と東方教会からの自立 グレゴリウス1世 6世紀の末、にローマ教皇となったは、厳しい修道院での信仰生活によって権威を高め、またゲルマン人への布教に活路を見いだそうとにベネディクト派の修道士をに派遣した。 聖像禁止令とピピンの寄進 さらにのビザンツ皇帝レオン3世が出したに始まるでビザンツ教会との対立が激しくなると、ゲルマン人の中で唯一ローマ教会に帰依していたフランクとの結びつきを強めようとした。 751年ののの即位を承認した見返りとして、にでラヴェンナ地方などを得てを成立させ、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となる基盤を築いた。 フランク王国との結びつき にローマ教皇がフランク王国のにローマ皇帝の冠を授けたによって、ローマカトリック教会はフランク王国を保護者としてビザンツ皇帝及びコンスタンティノープル教会から完全に自立することに成功した。 両者はに正式に分離を宣言、し、現在に至っている。 ローマ教皇権力の動揺 9~10世紀前半はフランク王国の分裂やノルマン人・マジャール人の侵攻などでヨーロッパは再び分裂と停滞の時代になったが、この間教会と修道院はかえって社会不安の中で勢力を増し、聖職者のを作りあげ、ローマ教皇はその頂点として西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。 に東フランクのがマジャール人を撃退、ローマ教皇は彼に西ローマ皇帝の冠を授け()た。 これがの始まりであり(実際にその名称が定着するのは13世紀だが)、は領内の教会を聖職者任命によって統制するをとり、またローマ支配を常に意図してを展開することとなる。 中世初期のローマ教皇と世俗権力である皇帝との関係は次のように説明するのが妥当であろう。 引用 ローマ法王という宗教上の普遍的権威は、ただこれに対応する皇帝権という世俗的は普遍的権威の存在をまってだけ、その普公的(カトリック)な使命を果たし得たことは、中世史の数々の事例が証するところである。 さもなければローマ法王の座は、つねに、ローマ市ないしはイタリアの狭隘な地方的権力闘争の焦点となり、その実質ははなはだしくその名称を裏切るのである。 このような意味で、当時ローマ法王権は、8世紀初めに起こった聖像破壊運動をめぐって、東ローマ皇帝と争っており、さらに他方では、法王の苦境を利して中部イタリアに制覇しようとする北イタリア、ロンバルディアのランゴバルド族と対立していたことは、十分記憶されねばならぬところである。 法王権はこの苦境を打開するため北方のフランク王国と提携し、そのカロリング王朝の創立をたすけ、みずからもその保護に頼っていた。 ・・・ <堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p. 63-64、再版2013 中公文庫> ローマ教皇の堕落(9~10世紀) 9世紀から10世紀にかけて、フランク王国の分裂という政治的混乱を背景として、俗界の権力の干渉を受けて地位が動揺したローマ教皇の中には、堕落した人物が目立っている。 このローマ教皇の退廃期ともいえる時期の実情は、高校の世界史教科書では詳しくは出てこないが、このような事態があってはじめてクリュニー修道院の修道院運動や、グレゴリウス7世の改革、が行われることになるので、目を向けないわけには行けない。 ややゴシップめいたことだが、次のようなことがあった。 Episode 屍体公会議 フォルモスス(在位891~896)はドイツ王の支援で教皇となったが、その死後、対立していたローマの貴族に推されて教皇となったステファヌス6世は墓からフォルモススの遺骸をひきだして公会議をひらき(屍体公会議と言われた)、前教皇の聖職を剥奪して俗人に戻し、彼が教皇として行ったすべての行為を否認して、祝福を与えた指を切断、さらに遺骸を数日間放置して、最後にはティベル川に投げ込んだ。 Episode 殺人法王とポルノクラシー さらにその後に現れたセルギウス3世(在位904~911)は二人の前任者を殺害して教皇になった。 そのセルギウス3世はなんと教皇庁内に引き込んだ女マロツィアとの間に子供をもうけ、さらにマロツィアは教皇庁で実権をふるい、その子がまた教皇になるということがあった。 このように堕落した10世紀前半の教皇庁のありかたをポルノクラシー(婦妾政治、娼婦政治)と言っている。 マロツィアはやがてローマ市の事実上の支配者となり、一族で市の要職を壟断したばかりでなく、何人もの法王を自由に廃立し、しかも反抗する法王を暗殺してはばからなかった。 この婦妾政治(ポルノクラシー)は、マロツィアとセルギウス3世の間に生まれた男子がヨハンネス11世として法王座にあったとき、マロツィアが最初の夫スポレト侯によってえた長子アルベリクスが勢力をえ、法王とマロツィアその人を逮捕投獄し、ついで殺害することによって終わったのである。 <堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書、再版2013 中公文庫> この他、962年にを行ったローマ教皇も、17歳で教皇となり、教皇庁でみだらな生活を送ったことで、27歳で結局オットーによって廃位されている。 修道院運動と叙任権闘争 11世紀後半にを中心にして始まった新たなの影響を強く受けて登場したは、から「 グレゴリウス改革」といわれる教会改革を推進し、と聖職者の妻帯を厳しく非難して粛正に努めた。 その一環として、それまでなど世俗権力に握られていた聖職者の叙任権を教皇が奪還すべくを展開した。 カノッサの屈辱 グレゴリウス7世は、聖職叙任権の教皇への移譲を拒否した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。 、ハインリヒ4世がグレゴリウス7世をカノッサに訪れて謝罪し、破門を解かれた事件は「」といわれ、ローマ教皇権が世俗の権力を圧倒した象徴的な出来事であった。 ハインリヒ4世は態勢を整え、グレゴリウス7世に反撃し、一時教皇はローマを追われる状態となったが、11世紀末にがローマに帰還した。 十字軍運動 はにを開催、を提唱し、ヨーロッパ各国の国王、諸侯、都市がそれに従ったことによって実行され、に聖地の奪還に一時成功したことによって教皇権力が西ヨーロッパ世界の世俗権力をもまとめあげることとなった。 ローマ教皇庁が文書の上に現れるのも1098年が最初である。 ヴォルムス協約 当初の十字軍の聖地回復が成功したこともあって教皇権威が高まり、には神聖ローマ皇帝とローマ教皇によるが成立して、皇帝がドイツにおいては教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は一応の終結をみた。 ローマ教皇軍の勝利 12世紀にはのの皇帝が北イタリア進出を目指したのに対して、ローマ教皇アレクサンドル3世は北イタリア諸都市のと提携して戦い、のでは皇帝軍を破っている。 ローマ教皇権の最盛期 13世紀、時代後半のローマ教皇は絶大な権利と権力を持つこととなる。 その頂点にあったは、「 教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのやイギリスのなど)を破門にするなどによって抑え込み、ヨーロッパに君臨した。 また、(在位1243~54年)は、シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝と対立して破門にし、おりからのの率いるモンゴル帝国軍にキリスト教軍がで敗れたことを受けて、初めてのモンゴルへの使者を派遣した。 しかし、広大なを支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。 13世紀末には十字軍運動も結局、聖地奪還が出来ないまま終結し、教皇の権威は大きく揺らいできた。 アナーニ事件から大分裂へ のでは教皇はフランス王に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらにからはフランス王によって教皇がに移されるという「」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。 ローマ教皇がローマに戻ってからも、にローマとアヴィニヨンに教皇が同時に二人(さらに末期には三人)存在するという(~1417年)という事態となった。 そのような中、イギリスのやベーメンののような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。 それに対してローマ教会は教皇の権威を守ろうとして、のでウィクリフとフスを異端として弾圧したが、同時に教皇よりも公会議の決定が重要であるという決議をするに至った。 ローマ教皇の権威低下はそのヨーロッパ国際政治での調停力の低下となって現れ、1339~1453年のが起こった。 その間のの流行、さらに東方で強まってきたの圧力などがローマ教皇とローマ教会の権威の動揺をさらに深めることとなった。 ルネサンス・宗教改革期の教皇 さらにの風潮がひろがって、のような人文学者なども教会の形骸化した信仰のあり方を批判するようになった。 事実、ルネサンス期のローマ教皇には世俗の権力と密着して腐敗堕落するものが出現しており、ボルジア家出身の(在位1492~1503年)などがその悪行で知られている。 しかしその権威はまだ高く、この教皇はおりからコロンブスの新大陸発見から始まった大航海時代でのポルトガルとスペインの勢力圏を巡る調停を行い1493年にを定めている。 次の(在位1503~1513年)はの改修を開始し、ブラマンテやにその仕事を与えた。 次の(在位1513~1521年)はメディチ家出身で、の修築費用の捻出のため、ドイツに対する贖宥状の発行したことから、1517年にによるが始まった。 反宗教改革(対抗宗教改革) ルターとカルヴァンによる宗教改革が始まり、新教()勢力が大きくなると、ローマ教皇はヨーロッパでの絶対的権力を失い、中部イタリアの教皇領を支配する一君主という存在となった。 そのような教皇の権威の低落を嘆き、教皇への服従というカトリック教会の信仰の根幹を再建しようとしたのが、を中心としたの運動(対抗宗教改革)であった。 その運動もあって力を盛り返し、ヨーロッパではスペイン・フランスや南ドイツ、ポーランドなどで影響力を強め、さらに新しい布教地としてラテンアメリカやフィリピンなどを対象に熱心なによる伝道が行われ、勢力を盛り返した。 1534年にを公認したローマ教皇は、1542年にはを設置しての取り締まりを強化し、さらに1545年から63年までを召集し、カトリックの教義と教皇の権威の確立を図った。 その一方、パウルス3世は晩年のにシスティナ礼拝堂のを描かせている。 16世紀後半には、ピウス5世(1570年にイギリスのを破門)、グレゴリウス13世(1582年、を制定)、シクストゥス5世(ローマ教皇庁の改革)の「改革教皇」といわれる三人の改革派教皇が現れた。 宗教戦争 しかし、ヨーロッパの大勢は、フランス国内の新旧両派の激しい内戦である(1562~98)、旧教国スペインから新教国オランダが独立を目指して戦った(1568~1609)、そして17世紀前半のドイツの内戦にヨーロッパの新旧両派の国が介入した(1618~1648)というがあいつぎ、1648年ので信仰の自由の最終的承認とともに体制が成立したことによって、ローマ教皇の権威は相対的に低下し、さらに最大の旧教国であったによって教皇の国際政治上の力はほぼ消滅した。 またフランスは旧教国であったが、伝統的にローマ教皇とは分離した国王の権威を重視するが定着していった。 フランス革命とローマ教皇 1789年、が勃発すると、革命前ののもとで教会によって抑圧、収奪されていた民衆の反カトリック教会感情を背景に、革命政権によって教会領が没収され、カトリック世界は危機を迎えた。 特にジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて、フランス政府とローマ教皇は断絶した。 次の総裁政府のもとで、革命亡命のために4月にを開始したは北イタリアを軍事的に優位に立ち、1798年には軍隊をローマに派遣して、教皇 ピウス6世に退位を迫りの樹立を宣言した。 ナポレオンとローマ教皇 しかし、革命を収束させたは、権力の維持・強化を図り、ローマ教会の関係修復を図り、にローマ教皇ピウス7世との間で宗教和約()を成立させた。 このように旧体制と妥協を成立させたナポレオンは1804年にとして皇帝となった。 翌年、ナポレオンはイタリア共和国を王国に改め自ら国王に就任、ピエモンテ、ヴェネツィア、トスカーナなどを併合し、さらに1808年2月にはフランス兵をローマに進駐させ、翌年9月にはついいローマ教皇領も併合してしまった。 かつてナポレオンの戴冠式を行った教皇 ピウス7世(在位1800~23)は、ローマ教皇領を失い、フランス軍の囚われの身となり、パリ近郊のフォンテーヌブローに幽閉されてしまった。 ようやくナポレオンが没落し、1815年、ウィーン会議でフランス革命以前のヨーロッパの秩序が回復されることとなり、ローマ教皇領も復活、教皇もローマに帰還した。 イタリア統一とローマ教皇 ローマ教皇は中世以来のローマ教皇領を中部イタリアで回復し、教皇国家といわれる独立した権力を持っていた。 19世紀のウィーン体制の時代、全ヨーロッパで自由主義と民族主義が台頭すると、イタリアでも国民的な統一を目指す運動(リソルジメント)が盛んになり、教会国家の存在が大きな障害となってきた。 ローマ共和国 教皇 ピウス9世(在位1846~78)は初め改革派教皇と期待され、教会国家でも憲法制定の動きも出てきたが、オーストリアから改革を否定されると次第に反動的となった。 それに対して、ヨーロッパで燃え上がったの余波がローマにも及ぶと、初めに教皇はローマを脱出、ローマ市民が蜂起しを成立させた。 この時はマッツィーニやガリバルディも共和国に参加し、革命的な変化が起こりかけたが、フランスのルイ=ナポレオンがローマ教皇を支援することを表明して軍事介入し、共和国軍は壊滅した。 それによってピウス9世はローマに復帰した。 イタリア王国の成立 19世紀後半、イタリア統一の主導権を握ったのは、フランスの支援を取りつけてオーストリアと戦い、北イタリアの解放に乗り出した。 このはナポレオン3世がオーストリアとの講和に変心したため挫折したが、義勇兵を率いたがと征服に成功、それらの征服地をサルデーニャ王国に献上することによってイタリア統一は急速に進み、、(都はトリノ)が成立した。 しかし、ローマ教皇領とヴェネツィアはまだイタリア王国には含まれなかった。 ヴァチカンの囚人・ローマ問題 イタリア王国はローマ教皇領の併合を進めようとしたが、世俗の国王への従属を拒否する教皇はそれに応じず、カトリックの擁護者をもって任じるナポレオン3世の派遣したフランス軍に守られていた。 ところがのためフランス軍が撤退した隙を乗じて、9月、イタリア王国軍が、住民投票の結果、ローマはイタリア王国に併合されることが決まった。 翌7月にはローマはイタリア王国の首都となり、ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められる形となり、ピウス9世は自らを「ヴァチカンの囚人」と称した。 イタリア王国とヴァチカンの関係は悪化し、「 ローマ問題」(イタリア語で分裂を意味する「ディシディオ」といわれた)として続くこととなった。 ピウス9世はローマ教皇在任期間が最長となる中、ヴァティカンで宗教会議を開催、「教皇無誤謬宣言」を出すなど反動色を強め、70年代にはドイツ帝国のとはで激しく対立した。 ムッソリーニとのラテラノ条約 第一次世界大戦後の1922年、ローマ進軍を行って政権を獲得したは、独裁体制を安定させようとしてカトリック教会との和解を図り、1929年ローマ教皇ピウス11世との間でを締結し、ローマ教皇領に対する賠償金の支払いと、一個の主権国家としてが独立することを認めた。 これによって「ローマ問題」は解決し、サン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカンは、世界で最も小さい主権国家として独立した。 現代のローマ教皇 カトリック信者は現在では約10億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。 1978年にローマ教皇となった ヨハネ=パウロ2世は、456年ぶりにイタリア人ではなく、しかもポーランド人としてははじめて教皇に選出された。 ヨハネ=パウロ2世は東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送り続け、2005年に死去し、ベネディクト16世(ドイツ人)が継承した。 ベネディクト16世は、2013年に719年ぶりに生前退位(生存しているうちに退位すること)し、新教皇フランシスコ(アルゼンチン人)が選出された。 大変珍しい生前退位となった裏には、聖職者の度重なるスキャンダル(聖職者による性的虐待事件など)があったのではないかと取りざたされている。 Episode 教皇選出は根比べ? ローマ教皇の地位は世襲はあり得ず、聖職の最高位として信仰の厚いものから選ばれたが、11世紀以降はその諮問機関である枢機卿(Cardinal)の秘密会で選出されることが原則となった。 教皇を選出する枢機卿の秘密会議をコンクラーベという(もちろん日本語ではなくラテン語で)。 枢機卿(カージナル)は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。 1179年から教皇選挙権は枢機卿だけが持つ、とされたので教皇に次いで最も重要な役職であり、彼らがかぶる赤い帽子はその権威の象徴となっている。 その人数は時代によって違うが現在は164名(2003年9月現在)である。 枢機卿は教皇が選任する。 教皇選出の会議のコンクラーベという言葉は、「鍵で」を意味し、その選出会場が外部から一切干渉されない秘密会であるところからきている。 選出は現在では参加した枢機卿の中から多数決で選ばれることになっており、当選には3分の2プラス1票が必要である。 当選が決まると投票用紙をストーブで焼き、しめった藁を混ぜて煙が黒ならば未決、白ならば選出された印とされる。 <小林珍雄『法王庁』岩波新書による> コンクラーベの実際 2005年4月2日、26年半にわたり教皇であったヨハネ=パウロ2世が84歳で死去した。 ヴァチカンのシスティナ大聖堂で4月18日から次期教皇の選出のためのコンクラーベが開催された。 引用 ラテン語が語源で「カギのかかった」という意味があるコンクラーベは、13世紀、クレメンス4世の死後にローマ郊外で選挙をした際、2年以上たっても決まらないことに怒った市民が会場にカギをかけ、中の者たちにパンと水だけを与えて缶詰にしたことが語源とされている。 ・・・外から遮断された環境で行う伝統は、現在も続いている。 枢機卿らが携帯電話はもちろん、テレビ、ラジオ、新聞などに接することは一切禁じられている。 枢機卿らが宿泊するバチカン内のサンタマルタ館は電話回線やインターネットのアクセスも切られた。 35-37> このときコンクラーベに参加した投票権を持つ枢機卿は満80歳未満に限られ、世界52ヵ国の117名のうち、欠席を除く115名だった(日本人枢機卿2名も参加した)。 焦点は前任者がポーランド人だったので今度はイタリア人になるのではないか、という点と、改革派・保守派のいずれの人物か、ということだった。 夕方、第1回の投票を知らせる煙突の煙は灰色で、白黒見分けがつかず報道陣も混乱したが、結局黒で1階では決まらなかった。 翌日の夕方、白色の煙がでて、決定したことが知らされた。 午後6時40分、大聖堂中央のバルコニーから姿を現したのは、新教皇に選ばれたドイツ人のヨーゼフ=ラツィンガー枢機卿で、彼が新教皇ベネティクト16世となった。 新教皇は前任者を忠実に補佐した人物で、保守派とみられていた。 ヨハネ=パウロ2世とベネティクト16世 前任者ヨハネ=パウロ2世は出身で、を後押してポーランド民主化に大きな役割を果たしたり、異教徒との宥和にも熱心で、世界中を飛び回って平和を説き、にも反対したことで知られた国際派だったが、ことカトリック信仰に関しては超保守派に属し、人工中絶、同性婚などには絶対反対の立場を貫いた。 ベネティクト16世もその保守的姿勢は変わっていない。 しかし、異教徒に対する寛容の点ではヨハネ=パウロ2世と違っていて、就任直後に出身地のドイツで説教したときに、ムハンマドを非難しイスラーム教徒をテロと同義に見なすととれる発言をして、アラブ諸国から激しい非難が起こった。 新教皇は弁解に努め、トルコを訪問するなど関係修復をせまられることとなった。 ローマ教皇の辞任 2013年2月11日、世界中がベネディクト16世の言葉に驚いた。 13世紀末以来、ローマ教皇は死ぬまでその地位にある(つまり終身)ことが通例であったにもかかわらず、生前に辞任すると発表したのだ。 理由は高齢(87歳)のため、心身共に教皇としての任務に堪えられないということであった。 ローマ教皇が自由意志で自らその地位を去ることなど考えられなかったカトリック信者、のみならず世界中に驚きの声が起こった。 教皇が生前に、自分の意志で辞任したのは1294年のケレスティヌス5世以来のことだという。 ケレスティヌス5世というのは教皇の無力さを自覚し、就任1年もたたずに自ら退位した。 次の教皇は強気で知られたで、彼は1303年のでフランス王から屈辱を受け、憤死した。 また自由意志ではない辞任の例は、を終わらせるために1414年に召集されたによって、三人の教皇の同時退任を決めたとき、ローマで教皇であったグレゴリウス12世はその意向を受け容れて自らの意志という形で1415年に退位した例である。 このときピサの教皇ヨハネス23世とアヴィニヨンのベネディクトゥス13世は解任という形をとったが、ベネディクトゥスは解任を拒否し、スペインに逃れて教皇と称しつづけた。 ローマでは新たにマルティヌス5世が教皇に選ばれ、それ以後のローマ教皇はいずれもその死をもって終わるのが例になった。 教皇辞任の背景 このようにローマ教皇の歴史のなかでも特異なケースであるので、ベネディクト16世の突然の辞任表明には世界中が驚いたのだった。 辞任(カトリック教会ではあくまで退任ではなく辞任といっている)後のベネディクトは実権の伴わない「名誉教皇」となったと報じられているが、公式にはその理由は高齢があげられるだけで、その本当の理由についていろいろな憶測を呼んでいる。 2009年頃から各地でカトリック聖職者による性的虐待が明らかにされたり、教皇庁がマネーロンダリングにかかわって蓄財しているという疑惑などが表面化したことも、彼が教皇の職務を重圧と考えるようになった背景にあるのは考えられることだ。 NewS 新教皇フランシスコ 2013年、新たに教皇(第266代)に選出されたフランシスコである。 教皇としてはこの名を名のった人物はいないが、「1世」をつける必要は、いまのところはない。 彼はアルゼンチンのブエノスアイレス出身(イタリア系アルゼンチン人)。 初めてのアメリカ大陸出身者で教皇となった。 また意外だが修道士から教皇になったのも初めてである。 就任時、すでに76歳という高齢になっていたが、貧困や環境などの社会問題に関心が深く、その行動力が評価されている一方、人工中絶、同性婚などには前教皇と同じく保守的な立場を取っており、様々な問題を抱える教皇庁の変化に注目が集まっている。 印 刷 印刷画面へ 書籍案内 鈴木宣明 『ローマ教皇史』 教育社歴史新書 1976年のヨハネ=パウロ2世の登場まで。 面白みには欠けるが、記述は上智大教授の教会史専門家らしく正確。 鈴木宣明 『ローマ教皇史』 2019 ちくま学芸文庫 2014年に死去した鈴木宣明氏の前掲書の新装版と思われます。 上智大名誉教授にしてイエズス会司祭であった氏の著作は、ローマ教皇について理解する上で最良の教養書ではないでしょうか。 オシヴォロ他/鈴木宣明訳 『ローマ教皇』 双書知の再発見 1997 創元社 堀米庸三 『正統と異端』 初版 1964 中公新書 再刊 2013 中公文庫 竹下節子 『ローマ法王』 2005 中公文庫 265代ベネティクトゥスまで。 読み物として気軽に読める。 ヨハネ=パウロ2世についても詳しい情報がある。 ヨハネ=パウロ2世からベネディクト16世紀への交替を詳しくレポート。 またローマ教皇の歴史を概観している部分も読みやすい。 藤代泰三 『キリスト教史』 初刊 1979/再刊 2017 講談社学術文庫 文庫本で700頁超、まだ通読していないが、キリスト教史の日本をもふくめての全体像をつかむのに便利そう。 著者は同志社大の教授だった神学者で佐藤慶氏の師。

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